【『ウォーム・ボディーズ』鑑賞】ゾンビになれば人生うまくいく説。
『ウォーム・ボディーズ』(2013年)
原題:Worm Bodies
監督:ジョナサン・レヴィン
イケメンゾンビが世界を救う
全米初登場1位!世界が感染したのは、世紀末・ゾンビ・ラブコメ!!ゾンビとニンゲンが敵対する近未来―。ゾンビ男子Rは、ある日、襲撃するはずのニンゲン女子ジュリーにひと目ぼれをし、助けてしまう。
最初は恐れをなし、徹底的に拒絶していたジュリーも、Rの不器用全開な純粋さや優しさに次第に心を開きはじめる。出会ってはいけなかった、けれど、うっかり出会ってしまった二人の恋。それは、最終型ゾンビの“ガイコツ”軍団、そしてニンゲンたちのリーダーでもあるジュリーの父親にとっても許されるものではなかった!
彼らの恋は、ゾンビの死に絶えた“冷たい”ハートを打ち鳴らすことができるのか!?
そして、終わりかけている世界に、もう一度“温かな”希望をよみがえらせることができるのか!?(公式サイトhttps://www.asmik-ace.co.jp/lineup/1110より引用)
- 林遣都に似ているな 、と思って鑑賞したところ「やっぱり林遣都に似ているな」と思いました
- ロミオとジュリエットならぬ「R」とジュリーの物語
- やっぱり「おとぎ話」がすきなんだよ
- ゾンビって何だろう
- 私はゾンビになりたかった
- 潜在的ゾンビ希望者
- 「ゾンビであること」の功罪
- これからは「ゾンビ女子・男子がモテる」!!
林遣都に似ているな 、と思って鑑賞したところ「やっぱり林遣都に似ているな」と思いました
ゾンビマニアを自称している私だが、『ウォーム・ボディーズ』は恋愛要素が強めなのかな、と感じられ、何となく手が伸びなかった作品。
キャッチコピーも頂けない。ゾンビがイケメンである必要なんかない。ゾンビは口から臓物的な何かを垂れ流してこそ一人前だ。そんな偏見もあった。
そうして様々な場面で度々巡り合った作品であったが、
「パッケージの男の子、なんか林遣都に似ているなあ」
程度でスルーしてしまっていた。
林遣都はすき。イケメンもすき。でも、林遣都に似ているイケメンは、
なぜか私に対して強い訴求力はなかった。
数年後、私はAmazon Primeで再び『ウォーム・ボディーズ』に巡り合う。
何度目だ。
何度目の林遣都か。
私はとうとう再生ボタンを押していた。
ロミオとジュリエットならぬ「R」とジュリーの物語
ストーリーの基本は、ニコラス・ホルト演じる「R」(彼こそがゾンビ界の林遣都)とテリーサ・パーマー演じる「ジュリー」の恋模様。
今作のゾンビは比較的スタンダードな設定で、思考力が乏しく、人間を襲い、食べる。ジュリーたち人間はゾンビに対抗すべく、高々と壁を構築し、銃で武装している。
まさしく世紀末、といった閉塞感が漂っている。
そんな世界で恋に落ちてしまう「R」とジュリーは、まさにロミオとジュリエット。「ロミオとジュリエット」と聞けば大方のひとが連想する、あのバルコニーシーンまで再現している。ジュリーを食べないどころか、彼女を守り、必要があればゾンビ仲間すら攻撃する「R」は、ゾンビ仲間から異端として扱われる。一方たくさんの仲間たちがゾンビによって命を落としてきた人間サイドでも、ジュリーは「R」と会うことすら許ない。
しかし、2人の愛がやがてゾンビ仲間に人間としての心を取り戻させ、人間たちもまた、ぬくもりを思い出したゾンビとともに生きていく決意を固める。最終的には、ゾンビと人間が手を取り合い、ゾンビからさらに悪い方へ進化した存在・ガイコツに戦いを挑むこととなる。
やっぱり「おとぎ話」がすきなんだよ
物語の終盤、ガイコツを倒すことに成功した人間はとうとう対ゾンビ用に構築した高く分厚い壁を壊す。これは、物理的にも心理的にもゾンビとの隔たりがなくなったことを表していると私は感じた。
ハッピーエンドだね。よかったよかった。
だが、根性の曲がった私はこう考えたのだ。
「えっ、それで、ゾンビの食べ物はどうするの」
と。
愛の力でいずれ人間になれるとしても、大半はまだゾンビのまま。それなりに食事を与えるとしても、それはヴィーガンのひとに
「我が家ってお肉しか食べないんだーごめんね」
といって焼肉やハンバーグ、油淋鶏などを提供するのと何が違うのだろう。
また、
「これ、ジュリーの周りのひとがめっちゃ優くて配慮・分別の塊だな。自分が食われるかもだし、親の仇かもだし、私だったらゾンビを殺しはせずとも殴りはするかも。あとたぶん距離もおく」
とか、
「ガイコツという共通の敵がいたからゾンビと人間が団結できた、みたいなところもあるのでは……?もし今後何か諍いが起きたとき、『ゾンビだから』『人間だから』という偏見が絶対にないと言い切れるのだろうか」
とか、意地悪を言いたくなってしまうのである。
「こんなのおとぎ話じゃん」
と。
しかし。
言葉数少なく、それでいて不器用な優しさを見せる林遣都(違う)にはやっぱりときめいてしまったし、完全に理解し合うことはできないものの、持ち合わせる最大限の優しさを互いに向けあうゾンビと人間たちにはうるっとさせられてしまった。
また、「R」にはロブ・ゴードリー演じる「M」というゾンビ友達がいるのだが、この「M」がまた泣かせにくる。「R」とジュリーのふれあいを観て、かつて自分が人間だったこと、そのとき感じたぬくもりを思い出すシーンには見入ってしまった。
結局、なんだかんだおとぎ話がだいすきなんですよ。
登場人物みんな幸せだもん。
加えて、『ウォーム・ボディーズ』では音楽が重要なファクターとしても機能するのだが、この選曲がとにかく素晴らしい!!
「ゾンビ映画ってちょっと苦手だな」
というひとも、サントラだけでも聴いてみる価値は大ありかと存じます。
ゾンビって何だろう
ゾンビはしばしば何かのメタファーとして用いられると、偉い人の論文で読んだことがある。「自分とは全く異なる文化のルーツを持った人々」であるとか、「社会的マイノリティ」であるとか、「未知の物事」そのものとか。いわゆる自分とは違う・異質なものをゾンビとして描く。
『ウォーム・ボディーズ』でもゾンビはこういったもののメタファーであると私は感じた。
異質なもの=「ゾンビ的なもの」は私たちのすぐそばに、いつも存在する。身近な例でいえば、転校生や新入社員などもある意味では「ゾンビ的なもの」である。これらと自らとの違いを受け入れ、愛し、押しつけではない優しさをそっと差し出すことが、「ゾンビ的なもの」とともに暮らし、そして豊かになるヒントだと教えてくれたような気がする。
私はゾンビになりたかった
個人的な話だが、私は中学生くらいからずっとゾンビになりたかった。
人間関係が面倒くさい。だって、みんな勝手なこと言うんだもん。傷つけてくるし。
それに、毎日学校に行くのも変だ。同じことの繰り返し、ルーティンワークじゃないか。
それだったら、もういっそのことゾンビになりたい。
腹が減ったり相手にムカついたら食べてしまえばいい。コミュニケーション能力もそんなにいらないだろう。ゾンビが何か強いメッセージ性のある言葉を発しているのは見たことがないし、饒舌かつ快活なゾンビも私は知らない。
今まで観たどんな作品でも、基本的にゾンビは徘徊を繰り返している。ゾンビであれば決まったルーティンをこなすこともきっと苦ではないんだろう。
さらに、ゾンビであれば学業や仕事でなにか成果を上げる必要もない。外見やにおいを気にする必要もない。なぜなら、「ゾンビとはそういうもの」という共通認識がある程度は広まっているから。ゾンビは存在するだけでゾンビ足り得るのだ。
ある意味「ゾンビであること」は最高の免罪符である。
潜在的ゾンビ希望者
実は現代社会には「潜在的ゾンビ希望者」が結構いるのでは、と私は思っている。
高いコミュニケーション能力を求められ、学業も仕事も成果を求められ、家庭や友人関係でもうまく立ち回ることを求められ。
「求められる」ばかりで、素の自分を見失う。そして、疲弊し、飲み会などで特に意味のない会話を垂れ流し、学業・仕事は決まりきったルーティンと化す。
もう疲れた。
これじゃゾンビと一緒じゃないか。
もう、ゾンビになりたい。
『ウォーム・ボディーズ』では、そういった人々へのあたたかな目配りも忘れない。
「人生の疲れや痛みは、生きているからこそ、そして他人や自分を大切にしているからこそ感じられるものだよ」
と、前向きなメッセージを私たちに投げかけてくれる。
「ゾンビであること」の功罪
先ほど「ゾンビであることは最高の免罪符だ」と書いたが、『ウォーム・ボディーズ』ではこれがよくない作用を起こしていることも注意したい。
「R」は言葉数が少なく、どこか汚らしい見た目をしている(だがイケメン)。これはどうしてか?
「ゾンビだから」
だ。
これがちょっと小汚い人間だったらどうだろう。そして、見た目も林遣都じゃなかったら。
結構悲惨なストーリーが浮かぶ。
また、「ゾンビはいるだけでゾンビ足り得る」ことは多くのひとの共通認識であり、つまりあまり知能が高くなく、人を襲い、食って、ちょっと徘徊してみたりするだけで「ゾンビ」は完成する。ゾンビには「人を食べたいな」という気持ち以外、なんの野心も欲望もないように思える。
こういったゾンビに対する共通認識によって、「R」は批判的な言葉を言わず、純粋で、見返りなんて求めず、でも守ってくれて、下心とかはない、というとんでもなく都合のよいキャラクターであることが暗黙の了解となる。
加えて、本来他人を分析したり、あるいは映画などで誰かを描写したりするときには、その性質を表すいくつかのエピソードが必要であるが、「R」の場合、「ゾンビだから」の一言で済んでしまう。いわばキャラクター描写の放棄である。
あんまり話せないし、ちょっと小汚いけど、「ゾンビだから」しょうがないよね。
「ゾンビだから」欲、いわゆる下心とかないし、純粋な愛なんだろう。純粋だからこそ、身体を張って守ってくれるんだ。
人間だったらスタイルがよくないと、とか家柄重視、とか学歴が大事、とか言うけど、「R」は「ゾンビだから」、そんなこと考えないよね。
また、「R」を含め、作中のゾンビは、口から臓物を垂れ流したり、あるいは急に下半身を丸出しにしたりしない。これも大きなポイントである。ゾンビ的存在でありながらも、人間サイドの最低限のルールのようなものを踏まえている。上品なゾンビだな。
これらは、おそらく今作のテーマの1つである「異質なものとの共存」と大きく矛盾する。
異質だけど、純粋で、無欲で、言わずとも共通のルールは知っている。そういった、あくまで自分の許容範囲での「異質」しか認めない。そういった主張を感じる。
異質なものに開かれているようでいて、その実とても差別的な世界。それも無意識であるところがタチが悪い。しかしそれは、現実世界でもいっしょだ。
例えば新宿駅で、目の前で急におじさんが鳩を捕まえ、羽根をむしりだしたらどうだろう。「日本ではあんまり鳩を捕まえたりはしないかな。あと羽根をむしるのも見たことないかも」と説明するだろうか。私に関して言えば、答えはノーだ。とりあえず、見なかったことにして、できるだけ距離を取るだろう。
作中でゾンビは愛や優しさといった感情で人間らしさを取り戻し、人間の世界へと溶け込んでいく。しかし、少なくとも私には、それは異文化が混ざりあった新しい世界であるようには到底見えない。人間になる、ということは、ゾンビ的存在、つまり異質であることの脱却だ。実際、「M」はゾンビ体質が抜けず、指が曲がらないことに関して人間に「ゾンビ病」と説明している。別に指が曲がろうが曲がらなかろうがゾンビであろうがなかろうが「M」は「M」なのに。かつてのアイデンティティはいまや「病気」となってしまった。私は悲しくなった。
では、真に異質なものを受け入れるにはどうしたらよいのか。『ウォーム・ボディーズ』の世界で考えてみる。
週に1度は人間も人肉をちょっと食べみればよいのか。
あるいは、町内会などで「ゾンビウォーク大会」なるものを企画すればよいのか。
新宿駅で右往左往してなんとかおじさんから逃れようとする私には、その方法がいまだにわかっていない。
これからは「ゾンビ女子・男子がモテる」!!
「見返りを求めない」「余計なことをしゃべらず寄り添ってくれる」「ただただ優しい」「守ってくれる」……。
これらが「R」の特徴だが、自分の彼氏や彼女、あるいは配偶者として理想的な存在について検討し、本当の、本当の、本当の本音を自分に問いただしたとき、心のどこかでこういった要素を求めるひとは少なくないのではないだろうか。
疲れて帰って来たとき、ただ優しく迎えてくれる。
特に見返りも求めず、微笑んでくれる。
浪費して帰ってきても、文句ひとつ言わない。
自分という人格にとって、あるいは道理的に人間関係を振り返ったとき、この関係性が正しいかどうかについては疑問を抱くところである。
だが。
その存在の、なんと癒されることか。
そこで私は提唱したい。
モテたいなら、ゾンビ女子・ゾンビ男子を目指せ、と。
ただ、コミュニティにおいてのルールはきっちり把握することはもちろんのこと、可能であれば「R」のようにイカした外見であることが望ましい。さらに、ちょっといい家に住んでいることも大切だ。「R」はほかのゾンビが徘徊している中、1人飛行機の中にプライベート空間を持っていた。そういった他と差をつけるプライオリティを確保することも重要だろう。
そのうえで、「自分はゾンビなんだ」という自覚を持つ。
「モテ」だけではない。個体差もあるが、ゾンビになればルーティンワークや、意味があるんだかないんだかわからない会話も気にならなくなる可能性もある。人間関係すら、「私・僕ゾンビだから必要ないかも」と割り切れるかもしれない。
ゾンビになれば、人生うまくいくのだ。
ゾンビ、万歳。
ただ、彼女・彼氏・あるいは配偶者の元カノや元カレの脳は食べない方がいいだろう、とだけ忠告したい。
いくらゾンビとは言え元カレや元カノの記憶を体感するのはわりとメンタルにくると思うし、脳を食らう姿は周りをドン引きさせてしまう可能性が高いからだ。