死にたいから映画観よう

映画の感想を書きます。低所得です。ネタバレ注意

【『ミッドサマー』鑑賞】ホルガ村から出られない。

 

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『ミッドサマー』(2019年、原題:Midsommer)

監督・脚本:アリ・アスター

 

家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。

(画像、あらすじともに公式サイトhttps://www.phantom-film.com/midsommar/より引用)

 

 

読んでくださる方へのお願い、そしてこの作品がだいすきな方への謝罪

先に謝罪させてください。確かにこの作品は完成度が高いものであるのは確かなのですが、私はこの作品を手放しに絶賛することができません。

ですので、この記事は「今作の大ファンです」という方の気分を害される可能性があることだけ、先にご了承頂けますと幸いです。

また、この映画については、いろいろな方の意見を伺いたいと思っています。もしよろしければ、ぜひコメントやTwitterなどで率直な感想をお聞かせ頂けますと泣いて喜びます、私が。

 

ウッキウキで観に行きました

アリ・アスター監督については前々から気になっていた。なぜなら前作『へレディタリ―/継承』(2018年)への絶賛が凄まじく、「ホラー映画の歴史を塗り替えた」とまで言われていたからだ。

私はホラーがだいすきながら凄まじいビビりなので、『へレディタリー/継承』をなかなか鑑賞できないでいた。そんな中、アメリカで今作が公開されたことを知る。

「花々が咲き乱れる白夜の祭典で起きる惨劇」

概要を知った私はテンションがブチ上がった。

お花だいすき。

自然だいすき。

お祭りだいすき。

北欧もすき。

何だか自然を愛する心根は優しい悲しきモンスターみたいだな、とも思える私の性癖を著しくくすぐってきたのだ。「これだったら観られるんじゃないかな」と安易に期待を持った。

こうして私は、日本公開をまだかまだかと待ち続けていた。

 

そして、ついにそのときは来た。

ちょうど春めいた気候の日であった。花々が咲き乱れる春。私は春が一番すきな季節である。

私は浮足立って出かけた。

プロフィールにある通り、私は低所得なのでスターバックスコーヒーなんてお誕生日くらいにしか買えない。だが、今日は「祝祭」だ。どうせなら華やかなものを、と期間限定の「さくらラテ」を購入し、嬉しくて叫び出したい気持ちを押し殺しながら、映画館で着席した。

 

 

ストレス耐性テストなのかな?

私は楽しみを我慢できないタイプだ。

友人にサプライズプレゼントを購入しても、本人に渡すまでの期間が長いと我慢しきれず、「実はサプライズプレゼントがあるんだよね」とにやにやしながら言ってしまい、台無しにするタイプだ。

 

そのため、今作も実は、鑑賞した方々のレビュー(もちろんネタバレはなしのもの)を事前に拝読していた。

そのどれもが絶賛ばかりであった。

「奥が深い」「映像が美しい」といったレビューにも小躍りしたが、それ以上に私の関心を引いたのは

「癒される」

「女性が解放される映画」

というレビューの多さだ。

私の知識不足も多分にあるとは思うが、ホラー作品のレビューにおいてはなかなか見ることのないセンテンスが並んでいた。

 

私は今日、祝祭によって癒されるんだ。

そんな浅はかな期待は、大きく裏切られた。

 

すごい。

何って、ストレスがすごい。

 

冒頭から主人公・ダニーの家族は死ぬし(その写し方のまた嫌なこと)、ダニーと彼氏、そしてその友人たちとの関係もギクシャクしている。ダニーはほとんど顔を歪め泣き叫び続けるか、不安定な表情をしている。

そして、民族音楽らしく何を言っているかわからない歌唱と、聞えているんだかいないんだか、ひょっとしたら耳鳴りなのかもしれないようなBGM。

 

例え画面越しのフィクションであったとしても、この状況を目の当たりにしてニヤニヤできるひとがいるとしたら、私はそのひととはちょっと距離を置くと思う。

とにかく、観客の不安感・不快感をこれでもかと煽ってくるのである。

「嫌だなぁ、怖いなぁ」私の中の稲川淳二がにわかに騒ぎ出す。

 

そこから、畳みかけるように「アッテストゥパン」なる儀式でぐしゃぐしゃになった老人がクローズアップされ映し出されるし、友人は皮を剥がれて死に、食事にすら勝手に「嫌な手間」が加えられる。しかも、村人は常にドラッグを勧めてくる。登場人物は大体いつもキマっているのである。

 

不安感・不快感はマックスのままである。耐え難いストレスにさらされ、私は謎のからだの痒みを発症していた。ウキウキで買ったスタバの、そのカップの中身さえもう信用できなくなり、すっかり冷めきってしまっていた。

 

そして、物語は終盤へ。

私はもはや笑っていた。

「メイクイーン」を決めるためのダンスバトル。村の老女総出での性行為。犠牲者を決めるためのガラポン。クライマックスに近づくにつれどんどん華美になり、しまいには身動きが取れなくなってしまうフローレンス・ピューの装飾。そして「クマちゃん」の着ぐるみ。

「不謹慎ギャグ」の大喜利大会じゃないか。

私はドン引きしながらも、もはや笑うしかない展開に困惑していた。

 

こうして、私がウキウキで向かった映画鑑賞は、不安感・不快感と半笑いによって幕を下ろした。

 

企業に勤めていると、往々にしてストレスチェックテストなるものを受験することがある。「たぶんこう答えたら鬱病って診断されるんだろうな」と薄々勘付いてしまうような設問より、この作品を上映し、そもそも上映時間の間ずっと耐えられるのか、そしてこの映画について社員がなんと感想を述べるかをチェックしたほうがよっぽど有意義なのではないか、と真剣に考えている。

 

「最悪だった」

そんな感想が出てきた。怖かったのではない。「最悪だった」のだ。

では、何が「最悪だった」のか。私はそれを言語化することを試みる。

 

共同生活がだるい

「最悪」ポイントの1つ。それは「共同生活が無理」という私のしょうもない我儘にある。

私は昔から他人と一つ屋根の下で暮らすのが苦手だった。家族は百歩譲るが、一番許せないのが就学旅行や林間学校、合宿であった。

みんな一律に時間を守り、寝起きし、食事をする。

会話は筒抜けで、プライベートな時間や空間もない。

なぜみんな平気なのか。

むしろ「楽しい」とのたまうひとたちまでいる。

 

ホルガ村でも、どんなに赤子が泣き叫ぼうと一つ屋根の下で寝泊まりさせられる。食事もみんなで一緒。徹底的に「個」の時間・空間を排除した生活を余儀なくされる。

十分な睡眠もとれず、1人で我に返る時間も与えない。村民たちは、「個」の判断を奪い、共同体の構築するのに有力な手段であると理解しているのだ。

過激な意見ではあるが、ホルガ村まではいかないにしろ、先に述べた修学旅行や林間学校、合宿なども同じ側面を持っていると私は思っている。強制的に共同体を構築するのに、共同生活はぴったりなのだ。

正常な判断なしに、そして強制的に構築させられたコミュニティ。それは本当に結束力があり、あたたかく誰かを迎え入れてくれるものなのだろうか。

私は疑問を呈したい。

 

なんか、そんなに美しくなくない?

これも完全に私の主観に過ぎないのだが、「思っていたほど美しくなかった」のも「最悪」だった理由の1つだ。

私は今作に、至高の美を求めていた。というのも、しばしばホラー映画には「美」が用いられる。個人的には、グロテスクな描写と対比させ、より恐怖感を高めるためだと考えている。

もともとアリ・アスター監督の作品は、美術のセンスがとても高い。『Munchausen』というショートムービーでもその片鱗は伺えるし、『へレディタリー/継承』ではその美意識が爆発しすぎていて、むしろ心配になるくらいのものであった。

 

では、『ミッドサマー』はどうか。

確かに自然は豊かで、事前の情報通り、花も咲き乱れている。

だが、思っていたほどではない。「それなりに美しいな」、そこに着地してしまった。期待しすぎちゃったのかもしれない。

少なくとも、今作のグロテスクさに双肩できるほどの「美」を、私見出すことができなかった。

 

また、私は映画で美しく描かれる女性が大好物なので、それも期待していたのだが、そこも肩透かしを食らった。

まず、村民にあまり美女がいない。リアル感があると言えばそうなのだろう。

「どの口が言っているんだ」と思わないでほしい。だが、「映像美」を謳うからには、村にはモデル級の美女が揃っていてほしかった。

 そして、なんか、フローレンス・ピューのガタイがよい。フローレンス・ピューは確かに美しい。だが、なんかガタイがよい。

めっちゃ強そう。

そこが、今回の映画のテーマとは合わないのでは、とすら感じてしまった。これが細身の女性であれば、より儚さを演出できたのでは、と。

フローレンス・ピューだったら、村民と素手でやりあえるような気さえする。

 

ここで、私は私自身の傲慢さに気づく。

ガタイがよければ強いのか。

反対に、細身であれば弱く、美しく、儚いのか。

自分の中に、無意識に「美」の固定観念が根付いていたことに、私は戦慄した。

これが、1つのホラー体験である。

 

村民がうざい

色々と述べてきたが、それを押しのけて「最悪」だったのは、村民たちだ。私は鑑賞中「不快感」を感じていた。その正体は、村民たちへの「怒り」であった。

ここでは、村民への怒りを爆発させていきたい。

 

こんな村民は嫌だ! ①「文化の押し売り」

現実でもフィクションでも、それぞれのコミュニティには伝統的な暮らしがあり、そこに根差した文化がある。それがどんなに残酷なものであっても、私はそれを尊重すべきだと思っている。それを「間違っている」と言えるほど、私は私自身を大した人間とも正しい人間だとも思えないからだ。文化を変える、その大いなる責任も負いたくない。

ただ、それを異なるコミュニティに属するひとに押し付けるのは、違う。ホルガ村では、その文化を押し付け、そこから少しでも逸脱するようなことをすれば、コミュニティから疎外され、しまいには命を奪われてしまう。仲間だと迎え入れられるのは、ダニーのように心が弱り切ってしまっていて、その文化に疑問を持つ気力すらない、いわば「征服」できるような人間だけなのである。

「文化の違いだからさ、しょうがないじゃん」と他のコミュニティのひとの心や自尊心、ましてや命までもを犠牲にするのは、傲慢以外の何者でもないと私は思う。

 

こんな村民は嫌だ! ②「ナチュラルな人種差別」

「村民には有色人種がいない」。鑑賞後に拝読し、「確かに!」と吃驚したレビューだ。

ホルガ村はその規模の割に、結構な人口がいる。おそらくダニーたちのように外から連れてこられたり、或いはクリスチャンのように子孫繁栄のためだけに連れてこられたりしたひとが少なからずいることが推測される。なのに、構成員はすべて白人である。

反対に、今回の祭典で犠牲になった人間たちの多くは、有色人種であった。

「自分と違うものは排除したい」

異文化のみならず、肌の色ですら、村民は容赦しない。

より強固な共同体にするには、スケープゴートをつくるのが有効だ。そういった意味で、「肌の色が違う」というのは非常にターゲットにしやすい。

「私がホルガ村に呼ばれちゃったらどうしよう」と鑑賞中考えたこともあった。だが、考えるまでもない。私は黄色人種。ただ殺されるのを待つだけである。

文化と同じく、人種に対してもホルガ村は傲慢であった。

 

こんな村民は嫌だ! ③「安易に『わかる―』という」

さらに私を苛立たせたのは、「わかっているよ」という、村民の態度だ。

今作の終盤、クリスチャンの「裏切り」を知ったダニーは泣き叫ぶ。それを観た村の女性たちは、ダニーを囲み、同じように泣き叫びだす。

家族を失い、最後のよりどころであった彼氏にまで裏切られたダニーは、初めてここで他人と悲しみの共有ができたのだろう。

だが、私は強烈な怒りを覚えた。

村民よ、お前に何がわかるのか、と。

 

個人的な話になるが、私は安易な共感が大嫌いだ。

だから、なるべく他人にも「その気持ち、わかるよ」などとは抜かさないように気を付けているつもりだ。

 

ひとには様々なバックグラウンドがある。

例えば、ものすごく極端な話をするが、多くのひとは自転車のサドルが盗まれても、ムカつきはするし、警察にもおそらく届けるけれども、そこまで悲しみを抱くことはないだろう。

だが、そのサドル窃盗事件で咽び泣くひとがいたらどうだろう。例えば、それが亡くなった祖母の形見であったら。

「たかがサドルじゃん」と笑えるだろうか。

物事は、その表層がすべてではない。

感情も同じである。

他人の気持ちなんて、わかりっこない。

「悲しい」という1つの感情だって、ひとそれぞれ細かな糸が繊細に絡み合ってそれを構成している。1つだって全く同じ感情なんてないのだ。

であれば、その気持ちにそっと寄り添うことしか私たちにはできないのではないか。

悲しいし冷たいようだけれども、それが相手の感情を最大限に尊重する姿なのではないか、と私は信じている。

だからこそ、安易に悲しみを理解し、共有した(かのように見せかけた)村民に、私は拒絶反応を抱いた。安易な共感。それは相手の感情、そしてバックグラウンドに対する侮辱である。私には、ただ力なく側にいただけだったクリスチャンの方が、まだ誠実な人間に感じられたくらいだ。

 

一方で、「わかるー」で構成された会話を好むひとたちがいることも忘れてはならない。批判したいのではない。私も共感を必要とするときが大いにある。

それは、自分が悲しみに包まれているときや、マイノリティに属しているときだ。

そのときの「わかるー」という共感の、何と救われることか。自分の弱さ、或いはマイノリティに属するアイデンティティを受け入れてくれる場所がある、という安心感。

今作を「癒し」「女性の解放」と感じるポイントはそこにあると私は思っている。

安易でもいい。「本当にわかっているか」なんてどうでもいい。

ただ、「わかるー」と言ってほしい。

自分という「個」を滅してでも、どこかに帰属したい。

そんなひとたちが、少なからずいるということだ。

そんな社会が形成されていること自体が、相当なホラーだと私は感じる。

 

「大多数と違う」こと

私は自分が特別な感性を持っているとは思っていない。絶賛されている映画は大体楽しめるし、涙もする。

そんな私が、今作について世間で溢れていた「癒し」「女性の解放」を全く感じることができなかった。

世間とあまりにも異なる感想を抱いてしまった。これは人生で初めての体験であった。

私はどこかずれてしまったのだろうか。

社会という共同体から浮いているのではないか。

それは大きな不安につながった。

そんな不安も、「最悪だ」と感じた要因の1つである。

ダニーたちがホルガ村で味わった、「共同体に馴染めていない」という不安。それを、私はこの映画の鑑賞によって追体験した結果となったのだ。

 

 

 

 

「嫌だなぁ、怖いなぁ」は続く

こうして散々な目に合った『ミッドサマー』だったが、この作品は想定外の部分にも影を落としている。

私は自然や花々がだいすきだ。植物園もよく行き、いずれは世界中の植物園を制覇したい、という野望まで抱いている。

だが、『ミッドサマー』以降、このだいすきな風景に、私は無意識に、鑑賞中に感じた不穏な空気や血生臭さを嗅ぎ取ってしまうようになった。

今まで癒しだった風景が、完全にトラウマにすり替わってしまったのである。

私は絶望した。

そして恐怖を抱いた。

たった1つの映画が、フィクションが、私の現実に深い爪痕を残してしまったのだ。

これをホラーと呼ばずして何というのか。

 

散々なことを書いてきたが、『ミッドサマー』は私の人生を変えた、いや、変えてしまった傑作だったのだ。

 

 

「嫌だなぁ、怖いなぁ」。
私の中の稲川淳二は、これからも当分消えてくれそうにない。

【『愛がなんだ』鑑賞】私はパンツまで畳む。

 

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『愛がなんだ』(2019年)

監督:今泉 力哉

 

猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。だけど。マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。

(画像、あらすじともに公式サイトhttp://aigananda.com/より引用)

 

こわくてこわくて観られなかった作品

今泉監督の作品との出合いは『パンとバスと2度目のハツコイ』(2017年)、通称『パンバス』。

「まいまい」こと深川麻衣ちゃんの大ファンで、元まいみん(まいまいオタクの総称)・生涯深川麻衣推しである私は、舞台挨拶つきのチケットを購入し、映画館で鑑賞した。

「まいまいかわいいな」

「まいまいの隣の部屋で暮らしたいな」

そして

「生活のにおいのする映画を撮る監督なんだな」

というのが、そのときの感想だ。

 

私の中には、「生活のにおい系映画」というジャンルが確立されている。

特にきれいでもない街並み。

使い古された家具。

超オシャレではない登場人物たち。

セレブリティでもインスタグラマーでもない私にとって、それらはまさしく身近な存在。こういったものが写されている、つまり、「自分の生活と地続きの世界」が描かれている映画から、私の嗅覚は生活のにおいをかぎ取ってしまう。

そんな映画を、「生活のにおい系映画」とカテゴライズしている。

 

『パンバス』を鑑賞したとき、私はこの生活のにおいを非常に心地よく感じていた。その辺の街にいるその辺の人たちが、あたたかい視線で、大切に写されていたからだ。

 

それから少しして、『愛がなんだ』が公開されるというニュースを聞く。

私の女神・深川麻衣ちゃんも出演している。

パンフレットには、「マモちゃん」こと成田凌さんと「テルコ」こと岸井ゆきのさんの笑顔、やや黄色がかった街並み。あたたかな生活のにおいがするね。

観るしかないじゃないか。

しかし、あらすじを読むや否や、私の心は叫んでいた。

「この映画、なんかよくない感じするんだけど」

実を言うと、私は恋愛映画が苦手だ。

さらに言うと、「うまくいっていない系」や「失恋系」の映画は最も苦手なジャンルだ。

なぜか。

つらいから。

 

綺麗事を言いたいわけではない。でも、普通に生きているひとは、普通に幸せになってほしい。それが私の信念だ。

それが意外になかなか叶わないのが現実世界で、そこで生きるだけですでにつらいのに、なぜ映画の中でもつらい思いをせねばならないのか。

修行なのか。

 

『愛がなんだ』のあらすじからは、「うまくいっていない系」恋愛の香りがプンプンしていた。生活のにおいの中で、誰かが不幸になっていくなんて。もはやそれは現実じゃないか。

ダメだ。

こわい。

私の中で最もこわい映画は誰がなんと言おうと『リング』なのだが(幼い頃トラウマになり、私はレンタルビデオ店へ行けなかった)、『愛がなんだ』はそれを凌ぐ恐怖ムービーと化したのだった。

そんな折、私は親友のZちゃんに、映画上映会兼お泊り会のお誘いを受けた。そこで

「めっちゃこわい映画があってさ」

という話をしたところ、じゃあそれ観ようよ、とZちゃん。

Zちゃんとその夫、私の3人。これだけ頭数があればいけるかもしれない。

私は承諾した。

私のただならぬ恐怖心を察してくれたのか、Zちゃん夫妻は出前でピザを取ってくれた。なんとかポップな、楽しげな空気を醸し出そうとしてくれたのだろう。

そして、『愛がなんだ』鑑賞会が始まった。

 

台詞なしで伝わる「恋愛パワーバランス」

嫌な予感は冒頭から大当たりした。

体調が悪い、とそれとなくテルコを呼び出すマモちゃん。その電話だけで、こらえきれない喜びがこみあげているテルコ。そしてテルコはそそくさとマモちゃん宅へ向かい、甲斐甲斐しく味噌煮込みうどんをこしらえ、掃除をおっぱじめる。そこで、急にマモちゃんからやっぱり帰って、などと言われ、テルコは半ば強引に家から追い出されてしまう。ひどい。そう、2人は恋人同士でもなんでもないのだ。

夜も遅く、帰宅手段を失ったテルコは、深川麻衣演じる友人の葉子にヘルプを出す。

葉子は葉子で、若葉竜也演じるナカハラと夜を共にしていた。「彼氏かな?」と思いきや、葉子はナカハラに帰宅を促す。そして、当然のように帰っていくナカハラ。ひどい。そう、葉子とナカハラもまた、恋人同士ではない。

テルコはマモちゃんに弱く、ナカハラも葉子に弱い。

「恋愛強者」と「恋愛弱者」の構図。さながら負け続けるじゃんけんのような関係だ。

そして、やはり冒頭から、そこにはむせかえるほどの「生活のにおい」が立ち込めていた。登場人物たちからは、生きている人間のにおいを嗅ぎ取ることができた。演技とは思えない。私は成田凌さんを嫌いになりかけていた。

この時点から、私はピザの味が一切わからなくなっていた。

 

私はテルコです

ところがどっこい、テルコとマモちゃんは何となくうまくいっている雰囲気を醸し出し始める。マモちゃんもテルコも、関係性を定義するような言葉はもちろん、「すき」と気持ちを伝えることすらしない。

でも、ひとつ屋根の下で暮らし、一緒にご飯を食べる。何ならご飯を作っているテルコにマモちゃんはちょっかいをかけに行く(この「追いケチャップ」シーンは、成田凌さんファン必見。凄まじい破壊力だ)。そして一緒に風呂に入り、かゆいところはありませんか~、などと頭を洗いっこする。

なんという多幸感なんだろう。

私は幸せに包まれた。この幸せが続けばいいのに。

テルコもきっと同じ気持ちだったと私は思う。

 

だが、そんな生活は突然終わりを告げる。いろいろなものの積み重ねだったり、もしくは圧倒的恋愛強者であるマモちゃんの、ただの心変わりだったりするのかもしれない。

作中ではトリガーのひとつとして、「靴下を畳む」というものがあった。

マモちゃんが仕事に出かけているあいだ、マモちゃんの家で過ごすテルコ。ぱっと目を向けると、引き出しからぐちゃぐちゃになった靴下がのぞいている。

ああ、きちんと靴下同士をペアにして収納していないんだな。「靴下あるある」だと私は勝手に認識している。

それを、テルコはきれいに収納する。

だが、それに気づいたマモちゃんは一瞬フリーズする。そして、テルコを追い出してしまう。それだけでなく、それ以降、マモちゃんからの連絡はぱたりと途絶えてしまうのである。

 

「ハア? ひどすぎない?」

私は憤慨し、Zちゃん夫婦の方を向いた。だが、Zちゃん夫婦のリアクションは、予想とは全く異なるものだった。

「いやー、わかるわ、マモちゃんの気持ち。だって付き合ってもいないのにプライバシー侵害してくるんでしょ」

私は絶句した。え、すきだからこその思いやりじゃん。私だったらこのままパンツまで畳むと思う。

こう告げると、今度はZちゃん夫婦が絶句した。

 

そこから先は、Zちゃん夫婦とのリアクションの違いに、私はまるで異国に迷い込んだかのようなカルチャーショックを受けることとなった。

テルコは、マモちゃんがすきすぎるあまり、仕事に手がつかなくなり、結局クビになってしまう。Zちゃん夫婦はあきれた顔をしつつも爆笑していた。

だが、私は思っていた。

「すきな人ができて、仕事が手につかなくなることの何が悪い。

 しょうがないじゃないか、そんなにすきなんだもん。素敵じゃん」

そして私は絶え間なくマモちゃんに対して怒り倒していた。マモちゃんは、シャンプーしあいっこしたり、動物園にゾウを観に行ったり、焼き芋を半分こして食べるような、そんな幸せな日常を、なんとも思っていない。そんな体験は彼にとってコンビニエントなものなのだ。

私には許せなかった。テルコの純粋な気持ちを踏みにじる彼が。

私は尋常なないほどに、テルコに感情移入していた。

そして気づいた。

「テルコって、私なんじゃないの」

 

名優・若葉竜也

もう十何年も親友をやっているにも関わらず、Zちゃん夫婦と私との間にはあまりにデカすぎるカルチャーギャップが存在することが判明したが、それでも唯一私たちの心を通じ合わせてくれる存在が、この映画にはあった。

それが、葉子の「都合のよい男」であるナカムラくんである。

恥ずかしながら、私は若葉竜也さんという俳優を知りませんでした。つまりナカムラくんとしての彼が「初対面」である。

ヒャダインさんと、伊藤健太郎さん、そしてスパイス程度に小栗旬さんを混ぜたような風貌に、結構すごい毛量のヘアスタイル。そのルックスに加えて、彼のややうつろな眼差しや自信なさげな物言いが、「ナカムラくん」という存在にとんでもない説得力を与えていた。

「つらいときに思い出す、そんな存在でいい」「自分自身が愛するひとを『ひどい人間』にしている原因なんじゃないか」切実に悩む彼の姿に、私はもちろん、Zちゃん夫婦も思わず涙目になってしまっていた。

個人的にも、オタクである私はナカムラくんの気持ちが痛いほどわかった。

深川麻衣ちゃん、かわいいし、魅力的だもん。

「こんなんじゃダメだ」と自分を律するナカムラくんの気持ちを完全に無視し、私は「葉子こと深川麻衣ちゃんの寂しさを埋めるために、私はナカムラくんとシフトを組みたい」と考えていた。ね、気持ち悪いね。

 

みんながみんな、一生イケてるわけじゃないんだ

その後は地獄のようなシーンの連続だった。葉子が出かけてしまったため、葉子の家で、葉子の母とナカムラくん、そしてテルコの3人で年を越す、という「年越しイベントをほぼ全員他人、というメンツで過ごす」という絶対に経験したくないシーンも印象的だったが、何よりつらかったのは江口のりこさん演じる「すみれさん」の登場だ。

すみれさんは社交的で、おしゃれで、たばこをスパスパ吸っている、大人でなんだか都会的な女性だ。コミュニケーション能力もずば抜けていて、すかれようとしなくても、なんだかみんながすみれさんのことをすきになってしまう、そんな存在。恋愛遍歴を語らずとも、恋愛強者感がプンプンに漂っている。テルコとは対照的な存在だ。

そんなすみれさんに、あろうことかマモちゃんは恋をしてしまう。テルコには向けなかったいじらしい眼差し、不器用な優しさ。それはテルコの心、そして私の心をずたずたにした。

しかし、同時にこうも思った。

「あれ、マモちゃんってちょっとダサいしキモイな」

と。

あれだけテルコを魅了したマモちゃんが、すみれさんには全くと言っていいほど相手にされていない。マモちゃんは常にすみれさんの顔色を伺い、馴染めもしないパーティーに積極的に参加し、見事に孤立したりする。

恋愛強者だったマモちゃんが、すみれさんとの関係性においては、見事に恋愛弱者に成り下がっている。

私は少し安心した。

というのも、人間関係、とりわけ恋愛において強者であるものは、どんな場面においても強者であるという認識があったからだ。恋愛強者はイケてる、そしてイケてる奴はどんな場面でもうまいことやって、私なんかの数倍人生を楽しんでいるのではないか、と。

でも、マモちゃんはそうじゃない。ということは、人間みんな、人生ずっとイケてるわけじゃないのかもしれない。人生イージーモードの奴なんて、実はそんなにいないんじゃないのか。

冷静に考えれば当たり前の話で、恋愛は人生の一部であり、人生のすべてではない。「恋愛強者=人生うまくいっているはず」なんて、恋愛が人生のすべてだと考える、恋愛至上主義者の考え方だ。だが、テルコに感情移入し、「恋愛のためだったら仕事辞めたっていいじゃん」なんて思ってしまう私は、自覚がなかったけれど確実に恋愛至上主義者であり、この方程式を至ってナチュラルに用いていた。そんな私にとって、「恋愛強者はどんな場面でもイケているわけではない」というメッセージは、救いであるように感じられたのだ。

 

中学時代は主にまっちゃんとして過ごしてきました

物語の終盤、曖昧な関係を清算しようとしたマモちゃんに対し、テルコは自分の気持ちすら偽り、マモちゃんの恋を応援する、という名目でそれでも近くにいようとする。

 

Zちゃん夫婦は、テルコの言動に怯えていた。すきな人の「すき」を応援する。それはとてつもなく痛みを伴う行為だ。そんな痛みに耐えながら、それでもマモちゃんの側にいることを選んだテルコ。愛だとか恋だとか、もうわからない。テルコのアツい想いは執着へと姿を変えつつあった。そんな姿は、確かに恐ろしいものだった。正気の沙汰とは思えない。

私はと言えば、まあ私はテルコなので、「確かにこわいね」「悲しいね」と思いつつ、テルコにどこか幸せそうな雰囲気を感じていた。

 

テルコは作中ですきな人自身になってしまいたい、と語っていた。すきですきで仕方ないから、マモちゃんになりたい、と。

私もその気持ちはよくわかる。

実は、私は中学生の頃、ダウンタウン松本人志さんに恋をしたことがあった。あのまっちゃんだ。その頃すでにまっちゃんは大スターというかもはや大御所で、さらに私とは親子ほど歳が離れている。

追っかけや壁にポスターを貼るなどはしなかったものの、出演する番組はすべてチェックしていた。大変ライトなファンではあるが、あれは確実に恋であった。

まっちゃんに恋い焦がれる日々が続いていく中で、いつの間にか私はまっちゃんのしゃべり方、笑い方、仕草を完コピするようになってしまったのである。

今思えば最高にイタイやつだったと思う。夜中に悶絶するレベルである。

あのときの私は、意図せずとも間違いなくまっちゃん自身になろうとしていたのだと思う。

すきだから。あこがれだから。

そして、絶対に手が届かない存在だから。

だったら、まっちゃんになっちゃえばいいじゃん。

テルコにとってのマモちゃんは、もはや私にとってのまっちゃんになってしまっていたのだ。大御所でも親子ほど歳も離れていないマモちゃんが。

とんでもなく悲しい事実である。だって、テルコ自身が、心のどこかでは「マモちゃんには手が届かない」とずっと認識していたのだから。

その後、私はまっちゃんへの恋心から卒業した。失恋である。私が仮にまっちゃんになれたとしても、まっちゃんの恋人になることはない。その事実が悲しすぎた。

耐えられない。

でも、テルコのように、少しでもまっちゃんの側にいられるんだったら、どうだろうか。それはそれで、結構幸せなんじゃないか、なんて私は思ってしまうのだ。

 

 「純粋で正しい愛は報われてほしい」という願いの暴力性

この映画を観始めるにあたり、私はどこかで、「みんな誰かの大切な娘・息子なんだから、いい感じの恋愛をしましょうね」という結論に帰結するんだろうな、と思っていた。

だって、マモちゃんはさておき、テルコもナカムラくんも、まあちょっとアレなところはあるけれど、その想いは、純粋なものであるはずだ。社会的道理から逸脱もしていないし、誰にも迷惑かけていない。ナカムラくんに至っては、相手を愛しすぎるあまり、自ら身を引く、という決断をしたのだ。

これが純粋で正しい愛でなくてなんなのか。

だがそんな予想、というかもはや希望は叶うことがなかった。誰かの大切なひとであっても、その想いがどんなに正しく純粋でも、幸せな結末が約束されているわけではない、という残酷な現実があることを、この映画は示していた。

また、この映画が「生活のにおい系映画」であることもタチが悪い。

私が暮らす生活の、その地続きのどこかで、こんなに残酷な出来事が当たり前のように起きているのかもしれない、という恐怖を肌で感じることになるからだ。

 

だが、ここで私は疑問を抱いた。テルコやナカムラくんの想いは、本当に「正しく純粋」なんだろうか、と。

思えば、テルコもナカムラくんも、そしてマモちゃんも、すきな相手に対して、相手の気持ちを聞くことも、そして自分の気持ちを伝えることもしていない。私もZちゃん夫婦も、それについて何か疑問を抱くことがなかった。

ある一定の年齢から告白なんてしなくなる。「大人の恋愛ってそんなものなんじゃないか」という共通認識が何となくあるからだ。

そうなると、テルコとナカムラくんの愛、そこには相手が一切介在していない。

「こうしたらいいんじゃないかな」

「こうしたほうが相手は幸せだ」

それは一見思いやりに溢れているようでいて、その実相手のことなんて一切考えていないのだ。靴下がよい例で、マモちゃんは靴下を畳んでほしい、なんて思っちゃいない。でも、テルコは「よかれと思って」靴下を畳む。無償の愛だ、私もテルコもそう思うだろう。

マモちゃんからしてみれば、靴下がぐしゃぐしゃな方が探しやすいのかもしれないし、あるいは「しまっていた引き出しを開けて畳む」という行為は、プライベートな空間を侵害されたように感じられ、ひどく不快に思う可能性だってある。

 

だが、私はそれでも純粋な愛だ、と信じていたかった。

なぜならば、私はテルコだからだ。

「それでも相手の幸せを願っていることには違いないじゃないか」「尽くしたいと思える相手に尽くすことの何が悪いんだ」「相手の気持ちをいちいち察して、時には尽くす気持ちすら出し惜しみをする、それが大人の恋愛なんだったら、私は大人になんてなりたくない」

私はそう思っていた。

「純粋で正しい想いは報われてほしい」

「普通に生きているひとは、普通に幸せになってほしい」

これはテルコやナカムラくんに対しての願いに擬態した、私の欲望であった。

相手の気持ちが一切介在しない愛、それは一見美しいようでいて、その実欺瞞でしかない。そして、それが報われるべきだ、と考えることの、なんと暴力的なことか。

『愛がなんだ』は、気づきたくなかった、自分自身の愛の押し売り、そしてその暴力性を露呈させた。

 

それでも、優しく写される世界

こうして、『愛がなんだ』はまあたぶんハッピーエンドではない形で終わりを告げる。あとに残ったのは、どうしようもないひと、完全ではないひと、歪な恋愛感情をもつひと、傲慢なひと、そんなろくでなしばかりだ。私も含めて。

でも、それでも、そういった人々を、今泉監督は優しく映し出す。繰り広げられたのは残酷なストーリーだが、そこに向けられた眼差しは『パンバス』と変わらない、愛に満ちたものであった。

「ろくでもない生活してるけど、それも結構いいんじゃない」

「ハッピーエンドじゃないかもしれないけど、自分がハッピーならそれでもいいんじゃない」

今泉監督の映し出す映像から、私はこう語りかけてもらえている気がした。

 

『愛がなんだ』について、私は「恐怖ムービーである」という認識を改めるつもりはない。自らの歪さまで認識させられる、とんでもないホラー体験をしたからだ。

だが、鑑賞が終わったあと、元気が沸き上がるという不思議な感覚に満ちていた。

「私はろくでもない人間だけど、でもそんな自分を愛してみちゃおうかな」

なんて考えていた。

【『翔んで埼玉』鑑賞】『レッツゴー ジャパン』を製作しませんか。

 

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東映ビデオ株式会社https://www.toei-video.co.jp/special/tondesaitama/より引用)

『翔んで埼玉』(2019年)

監督:武内 英樹

 

埼玉県の農道を、1台のワンボックスカーがある家族を乗せて、東京に向かって走っている。
カーラジオからは、さいたまんぞうの「なぜか埼玉」に続き、DJが語る埼玉にまつわる都市伝説が流れ始める――。

その昔、埼玉県民は東京都民からそれはそれはひどい迫害を受けていた。
通行手形がないと東京に出入りすらできず、手形を持っていない者は見つかると強制送還されるため、
埼玉県民は自分たちを解放してくれる救世主の出現を切に願っていた。

東京にある、超名門校・白鵬堂学院では、都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)が、埼玉県人を底辺とするヒエラルキーの頂点に、
生徒会長として君臨していた。
しかし、アメリカ帰りの転校生・麻実麗(GACKT)の出現により、百美の運命は大きく狂い始める。

麗は実は隠れ埼玉県人で、手形制度撤廃を目指して活動する埼玉解放戦線の主要メンバーだったのだ。
その正体がばれて追われる身となった麗に、百美は地位も未来も投げ捨ててついていく。

2人の逃避行に立ちはだかるのは、埼玉の永遠のライバル・千葉解放戦線の一員であり、壇ノ浦家に使える執事の阿久津翔(伊勢谷友介)だった。
東京を巡る埼玉vs千葉の大抗争が群馬や神奈川、栃木、茨城も巻き込んでいくなか、伝説の埼玉県人・埼玉デューク(京本政樹)に助けられながら、
百美と麗は東京に立ち向かう。果たして埼玉の、さらには関東の、いや日本の未来はどうなるのか――!?

(公式サイトhttp://www.tondesaitama.com/より引用)

 

「埼玉県民にはそこらへんの草でも食わせておけ!」

公開されるや否や超話題作となった『翔んで埼玉』。原作マンガも大人気で、かくいう私も「埼玉県民にはそこらへんの草でも食わせておけ!」という埼玉県民を差別=ディスりにディスった、「もしかしたら埼玉県民に親でも殺されたのかな」とも思わせる衝撃のフレーズが書かれた表紙に魅了された者の1人だ。

そんな今作がAmazon Primeで公開されていることを知り、早速鑑賞してみた。

 

埼玉のこと、あんまりよく知りません

 

私は生まれも育ちも神奈川県の横浜市。都内にある大学に進学するまでは神奈川県からほとんど出たことがなかったように思う。

だって、買い物や娯楽、観光に至るまで、だいたいのものは神奈川県内で済んじゃうんだもん。

そんな経緯もあり、また恥ずかしながら地理に疎いことも相まって、私は神奈川県以外の都道府県のことをあまり知らない。もっと言えば、興味もない。

知識もなく、興味もなければ、そこにはなんの感情も生まれない。

憧れも、ディスる気持ちも。

というわけで、私は埼玉県に対しても、同様のスタンスであった。

大学に入学するまでは。

 

埼玉県民のプライドの話

私は池袋にある大学へ進学した。

初年度のオリエンテーションや授業などで、大学には中学校、高校と異なり、様々な出身地のひとがいることに軽くカルチャーショックを受けた。

「新潟」「静岡」「四国」あるいは海外出身のひとも多くいた。

それでもなぜか最も多かったのは、「埼玉県出身・在住者」であった。

当時の私は不思議に思い、あるとき埼玉県在住の友人に訪ねた。

「うちの大学って埼玉県の子多いよね」

すると友人は複雑な笑みを浮かべ、こう答えた。

「池袋は埼玉の領土だから」

 

大学での4年間は、神奈川でセルフ鎖国生活を送っていた私にとってある意味で留学生活ようなものであった。そして薄々各都道府県や土地にはなんらかのヒエラルキーが存在することに気づき始める。だがそれは「差別」とか「仲間外れ」とか大それたものにつながるものではなく、ただ飲み会でいじられたり、話の最中に「○○県出身のひとってこうだよねー」と笑い話にされたりする、といういった類のものだと認識していた。この「土地ヒエラルキー」は交通の便がよい都会やおしゃれなひと、高所得なひとが集う街、あるいは街並みがきれいなところほど、高く設定されるようであった。

ちなみに、横浜市は「土地ヒエラルキー」上位のようで、

「おしゃれな街だよね」

「え! 今度案内してよ」

などはもちろんのこと、

「あー! だから都会的な顔立ちなんだね」

とまで言われたことがある。「国ならまだしも市町村で顔立ちが決まってたまるか」と思ったものの、そんなに悪い気はしなかった。

一方、埼玉はなぜかヒエラルキー下位付近に位置していた。なんで? 交通の便、結構よくない? 行ったことないけどさ。私はバカらしいな、と思っていた。

ある日、私はまた違う埼玉在住の男友達(今思えば本当に埼玉県民に囲まれた大学生活であった)に

「埼玉県って『ださいたま』とか言われてるの、ひどいよね」

と笑いかけた。

すると、みるみるうちに彼の目からは涙が溢れだした。

え。

まじで。

私は高校の合唱コンクール以来久しく男子の涙を見ていなかった。

私は焦った。

なんてことをしてしまったんだ。

謝罪する私の言葉を遮って、彼はよくそう言われること、そしてアルバイトや仕事を頑張って、いつか埼玉から絶対に脱出したいと考えている、と語ってくれた。

涙を湛えた、悲しみ微笑みを向けながら。

この一件は、今でも私の心に暗く影を落としている。

こういった大学生活を経て、私は埼玉のヒエラルキーの低さが割とメジャーなこと、そこから生まれるディスを埼玉県民は笑って受け流しているが、その実傷を抱えていることを認識した。私は横浜市民。『翔んで埼玉』でいえば「B~D組」の人間で、埼玉人こと「Z組」の気持ちなんて、私なんかにわかるはずがなかったのだ。

 

だが、「傷つく」ということは、「本当はそうではない」と思っているということの証左だと私は思う。つまり、埼玉県民は「埼玉って結構いいところなのに」という気持ちを、心のどこかに抱えているのではないだろうか。「いいところ」とまで思っていなくても、「そこまでディスられるいわれはない」くらいの気持ちはきっとある。

これこそが「郷土愛」であり、埼玉県民のプライドなのだ。

そして、今まで彼らがされてきたように、ディスで笑いを誘うスタイルをとりながら、高らかに埼玉県民のプライドを称えるのが、この『翔んで埼玉』という作品である。

 

 

キャスティング、美術が素敵すぎる

完全なる偏見だが、邦画を観るとき、「キャスティング」「美術」が私の中でネックになることがある。

「なんでこの人にしたんだろう」

「お金持ちの設定のはずなのに、なんか所帯じみているな」

ここが気になってしまうと、私は映画の世界に没入できなくなってしまう。

そういった点で、『翔んで埼玉』は素敵すぎる出来栄えだった。原作のもつ何やらファビュラスな雰囲気を見事に再現している。

二階堂ふみさん演じる壇ノ浦百美については、「美少年でもよかったんじゃないかな」と少し思ったが、全編通してみると、二階堂ふみさんの演技なしでは、この作品は成り立っていなかったと感じられる。

また、「ぱるる」こと島崎遥香ちゃんはかわいくてだいすきだし、麻生久美子さんも大ファンなので、個人的にも大満足のキャスティングだったと言いたい。

加えて、メインキャスト以外にも注目したい。超名門校・白鵬堂学院では、「なんか都会っぽい」という「都会指数」によってクラスが分けられている。言わば前述の「土地ヒエラルキー」に則っているといえる。都会指数の高いクラスほど、美形ぞろいであり、等身が高く、バラの香りがしそうなキャストのみで構成されている。

一方、都会指数が低くなるにつれ、顔はよく言えば質素、悪く言えば醜くなっていき、何等身だかよくわからないキャストばかりになっていく。この白鵬堂学院パートを除けばほとんどが都会指数マイナスくらいの埼玉や千葉、そして群馬が舞台なので、この所帯じみたキャストがスクリーンを埋め尽くすこととなる。

それだけに、Gackt様、そして二階堂ふみは光輝くのである。

このキャスティングは、実に的を射ている。というのも、前述したように「土地ヒエラルキー」上位には交通の便がよい都会やおしゃれなひとや高所得なひとが集う街、あるいは街並みがきれいな街が食い込んでくる。したがって、それなりに見た目をケアすることができる所得を持つひとや、ある程度結婚相手を品定めできるひとが「土地ヒエラルキー」上位に溢れることになる。逆説的に考えると、「なんとなくいい見た目」のひとが集えば、何となくそこは「土地ヒエラルキー高めの場所感」が演出できるのである。

作中で「都会指数が高い」として青山や港区などが挙げられるが、これらの地域は現実世界においても「土地ヒエラルキー」の高い地域である。ここらを歩いてみると、何となく美男美女が多かったり、そうでなくてもおしゃれに気を遣っているひとが多く歩いているように感じられないだろうか。その際、「あっさすが青山だな」などと「土地ヒエラルキー」を再認識するようなことはないだろうか。

このようにキャストのルックスを用い観客に無言で「土地ヒエラルキー」を認識させることで、白鵬堂学院のクラス分け、あるいは埼玉、千葉、群馬と言った土地の雰囲気に謎の説得感を生み出しているのである。

また、美術のつくりこみもすごい。白鵬堂学院のセットは言わずもがな、群馬の未開の地感や埼玉のうらぶれ具合は、なぜ各都道府県からお叱りがなかったのか疑問に思うレベルに達している。

ここで特筆したいのは、常磐線の描写だ。日暮里駅から千葉県や茨城県福島県宮城県までをつなぐあの常磐線。「なぜ、あの数分のために、ここまで常磐線をつくりこんだのか」と、私は製作陣を問いただしたい。

 

ギャグだとしてもアツくなる

こうしたキャスティングの妙、作り込まれた美術、そしてキャストたちの迫真の演技によって、物語終盤の「埼玉VS千葉」の戦は、「ギャグだ」と理解し、笑いながらもどこかアツくなってしまうのだ。

不器用な埼玉を応援したい。

でも、千葉は強すぎる。

チーバくんふなっしー。極めつけは市原悦子さん。

そして捕らえられた他県民は、容赦なく穴という穴にピーナッツを詰め込まれるという。

ダメだ。

勝てない。

例によって千葉に対してもなんの知識も思い入れもない私は、千葉のとんでもない戦闘力と凶暴性に震えた。

一方で、千葉が「海がある」と高々とのたまい、「荒波!」みたいな感じののぼりを掲げている点については、知識がないなりに考え、「千葉っていうてそこまで海のイメージはないんじゃないかな」と冷静な突込みを入れることができた。

 

この川を挟んだ戦でも十分な熱量を感じるのだが、ここから、埼玉と千葉がともに手を取り合い、「土地ヒエラルキー」最上位ともいえる東京に戦をしかけていく様はまさしく大迫力である。

 

鑑賞中はずっと笑っていられるが、これもすべて戦や街の様子、県民一人ひとりのキャスティングに至るまで、「ギャグだから」で手を抜くことをしなかった、作品、そしてそれを囲む人びとの情熱の賜物である。

 

 

「土地」を愛すること

作品を観終わって、「あー面白かったな」と大満足した私だったが、一方どこか寂しい気持ちを抱えていた。これは、百美が作中で「うらやましい」という台詞で代弁してくれた。

前述のとおり、私は埼玉県や千葉県に対し何の感情も知識も持ち合わせていない。

でも、実はこれは私の地元・神奈川県に対しても同じだ。横浜はよい街だとは思うし、すきではある。でも例えば、いま「バカながわ」とか言われても、私は終始曖昧な笑みを浮かべるだけである。

私は神奈川県、あるいは横浜市という土地に対して、強い愛着がないのだ。

これが世代間ギャップ的なものなのか、私固有のものなのかはわからない。個人差も大きいとは思う。もしくは、私は白鵬堂学院でいうところのB~D組にあたり、特にディスられることもなかったから、愛着がわかなかった可能性もある。

一方で、前述したように「ださいたま」で悲しい思いをさせてしまった彼のこともあるし、少し前ではあるが、ヒエラルキー上位の街に児童相談所を新設するかどうかで「この土地にはふさわしくない」といった反対意見を述べる住民がいて話題になっていた。これらは間違いなく土地に対する愛着によるものだと私は思う。

私は、このような愛着を少しうらやましく思う(児童相談所の件はまた別だが)。友人や同僚が遠く離れた故郷を自慢げに語るのをみるとき、心のどこかで「いいな」と思っていた。

そんな私でも、愛着のある「土地」は存在する。

それは、「日本」だ。

私は特別に愛国者というわけでもないし、「日本サイコー!」とも思わない。「いいところを挙げて」と言われても、ぱっと出てくるか不安はある。

それでも、日本人が「日本人だ」というだけで海外で何かひどい目に合ったり、事件の被害者になったりするのはとてもつらいし、悲しい。現在コロナウイルスが世界的に流行しているが、アジア人というだけで「コロナウイルス保菌者だ」と差別的扱いを受けたというニュースを目にした。これには日本人も該当している。

また、日本人自体が日本を否定、もっと言えばディスってしまう悲しい習性も大いにあると感じている。

私自身、日本家屋か西洋建築かだったら西洋建築が好きだし、結婚式では着物よりドレスを着たい。グローバルに活躍してみたい。碧眼へのあこがれもあるし、美の基準はほとんど欧米化しているのではないだろうか。むしろ、欧米的美へのコンプレックスにまで進化しているとも言える。

これは『翔んで埼玉』でも顕著に描かれている。白鵬堂学院は西洋的美で溢れかえっていて、麗も百美も西洋の王子のような出で立ちをしている。

反対に、埼玉県や千葉県を描くとき、そこには日本的な家屋や農民が存在していた。

白鵬堂学院はきれい。埼玉県や千葉県はなんかイケてない」

この描写を観て、私は素直にこういった感想を抱いた。私の中の、あるいは日本人の大半が潜在的に持つ欧米的美へのコンプレックスが作中では大いに活用されていた。

 

「日本人は差別される」

「日本人ってなんか美しくない」

「日本ってダサい」

こういった意識が少なからず根差してしまった昨今、世界に向けて、いや日本人に向けて、『翔んで埼玉』ならぬ、『レッツゴー ジャパン』が必要だと、私は提言したい。

他者、あるいは自らが自分に向ける悪意のある眼差しや偏見を、シニカルに、軽やかに返り討ちにする、そんな一本が。

 

 

最後に、数あるこの映画に関するレビューで私の心に突き刺さったものを紹介したい。

「この映画で一番ディスられているは栃木だ」

というものだ。

確かに。

確かに。

 

思い返すと、栃木の「と」の字が出たか出ていないか、そこすら定かではない。

差別や偏見、ディスられることはもちろん悲しい。

一方で、無関心も同じくらい悲しい。

私は私自身の、土地に対する「何の感情も知識も愛着もない」というスタンスを見直そう、と心に誓いました。

 

 

 

【『ウォーム・ボディーズ』鑑賞】ゾンビになれば人生うまくいく説。

 

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(公式サイトhttps://www.asmik-ace.co.jp/lineup/1110より引用)

ウォーム・ボディーズ』(2013年)

原題:Worm Bodies

監督:ジョナサン・レヴィン

 

イケメンゾンビが世界を救う
全米初登場1位!世界が感染したのは、世紀末・ゾンビ・ラブコメ!!

ゾンビとニンゲンが敵対する近未来―。ゾンビ男子Rは、ある日、襲撃するはずのニンゲン女子ジュリーにひと目ぼれをし、助けてしまう。
最初は恐れをなし、徹底的に拒絶していたジュリーも、Rの不器用全開な純粋さや優しさに次第に心を開きはじめる。出会ってはいけなかった、けれど、うっかり出会ってしまった二人の恋。それは、最終型ゾンビの“ガイコツ”軍団、そしてニンゲンたちのリーダーでもあるジュリーの父親にとっても許されるものではなかった!
彼らの恋は、ゾンビの死に絶えた“冷たい”ハートを打ち鳴らすことができるのか!?
そして、終わりかけている世界に、もう一度“温かな”希望をよみがえらせることができるのか!?

(公式サイトhttps://www.asmik-ace.co.jp/lineup/1110より引用)

林遣都に似ているな 、と思って鑑賞したところ「やっぱり林遣都に似ているな」と思いました

ゾンビマニアを自称している私だが、『ウォーム・ボディーズ』は恋愛要素が強めなのかな、と感じられ、何となく手が伸びなかった作品。

キャッチコピーも頂けない。ゾンビがイケメンである必要なんかない。ゾンビは口から臓物的な何かを垂れ流してこそ一人前だ。そんな偏見もあった。

そうして様々な場面で度々巡り合った作品であったが、

「パッケージの男の子、なんか林遣都に似ているなあ」

程度でスルーしてしまっていた。

林遣都はすき。イケメンもすき。でも、林遣都に似ているイケメンは、

なぜか私に対して強い訴求力はなかった。

数年後、私はAmazon Primeで再び『ウォーム・ボディーズ』に巡り合う。

何度目だ。

何度目の林遣都か。

私はとうとう再生ボタンを押していた。

 

ロミオとジュリエットならぬ「R」とジュリーの物語

ストーリーの基本は、ニコラス・ホルト演じる「R」(彼こそがゾンビ界の林遣都)とテリーサ・パーマー演じる「ジュリー」の恋模様。

今作のゾンビは比較的スタンダードな設定で、思考力が乏しく、人間を襲い、食べる。ジュリーたち人間はゾンビに対抗すべく、高々と壁を構築し、銃で武装している。

まさしく世紀末、といった閉塞感が漂っている。

そんな世界で恋に落ちてしまう「R」とジュリーは、まさにロミオとジュリエット。「ロミオとジュリエット」と聞けば大方のひとが連想する、あのバルコニーシーンまで再現している。ジュリーを食べないどころか、彼女を守り、必要があればゾンビ仲間すら攻撃する「R」は、ゾンビ仲間から異端として扱われる。一方たくさんの仲間たちがゾンビによって命を落としてきた人間サイドでも、ジュリーは「R」と会うことすら許ない。

しかし、2人の愛がやがてゾンビ仲間に人間としての心を取り戻させ、人間たちもまた、ぬくもりを思い出したゾンビとともに生きていく決意を固める。最終的には、ゾンビと人間が手を取り合い、ゾンビからさらに悪い方へ進化した存在・ガイコツに戦いを挑むこととなる。

 

やっぱり「おとぎ話」がすきなんだよ

物語の終盤、ガイコツを倒すことに成功した人間はとうとう対ゾンビ用に構築した高く分厚い壁を壊す。これは、物理的にも心理的にもゾンビとの隔たりがなくなったことを表していると私は感じた。

ハッピーエンドだね。よかったよかった。

だが、根性の曲がった私はこう考えたのだ。

「えっ、それで、ゾンビの食べ物はどうするの」

と。

愛の力でいずれ人間になれるとしても、大半はまだゾンビのまま。それなりに食事を与えるとしても、それはヴィーガンのひとに

「我が家ってお肉しか食べないんだーごめんね」

といって焼肉やハンバーグ、油淋鶏などを提供するのと何が違うのだろう。

また、

「これ、ジュリーの周りのひとがめっちゃ優くて配慮・分別の塊だな。自分が食われるかもだし、親の仇かもだし、私だったらゾンビを殺しはせずとも殴りはするかも。あとたぶん距離もおく」

とか、

「ガイコツという共通の敵がいたからゾンビと人間が団結できた、みたいなところもあるのでは……?もし今後何か諍いが起きたとき、『ゾンビだから』『人間だから』という偏見が絶対にないと言い切れるのだろうか」

とか、意地悪を言いたくなってしまうのである。

「こんなのおとぎ話じゃん」

と。

 

しかし。

言葉数少なく、それでいて不器用な優しさを見せる林遣都(違う)にはやっぱりときめいてしまったし、完全に理解し合うことはできないものの、持ち合わせる最大限の優しさを互いに向けあうゾンビと人間たちにはうるっとさせられてしまった。

また、「R」にはロブ・ゴードリー演じる「M」というゾンビ友達がいるのだが、この「M」がまた泣かせにくる。「R」とジュリーのふれあいを観て、かつて自分が人間だったこと、そのとき感じたぬくもりを思い出すシーンには見入ってしまった。

結局、なんだかんだおとぎ話がだいすきなんですよ。

登場人物みんな幸せだもん。

加えて、『ウォーム・ボディーズ』では音楽が重要なファクターとしても機能するのだが、この選曲がとにかく素晴らしい!! 

ゾンビ映画ってちょっと苦手だな」

というひとも、サントラだけでも聴いてみる価値は大ありかと存じます。

 

ゾンビって何だろう

ゾンビはしばしば何かのメタファーとして用いられると、偉い人の論文で読んだことがある。「自分とは全く異なる文化のルーツを持った人々」であるとか、「社会的マイノリティ」であるとか、「未知の物事」そのものとか。いわゆる自分とは違う・異質なものをゾンビとして描く。

ウォーム・ボディーズ』でもゾンビはこういったもののメタファーであると私は感じた。

異質なもの=「ゾンビ的なもの」は私たちのすぐそばに、いつも存在する。身近な例でいえば、転校生や新入社員などもある意味では「ゾンビ的なもの」である。これらと自らとの違いを受け入れ、愛し、押しつけではない優しさをそっと差し出すことが、「ゾンビ的なもの」とともに暮らし、そして豊かになるヒントだと教えてくれたような気がする。

 

私はゾンビになりたかった

個人的な話だが、私は中学生くらいからずっとゾンビになりたかった。

人間関係が面倒くさい。だって、みんな勝手なこと言うんだもん。傷つけてくるし。

それに、毎日学校に行くのも変だ。同じことの繰り返し、ルーティンワークじゃないか。

それだったら、もういっそのことゾンビになりたい。

腹が減ったり相手にムカついたら食べてしまえばいい。コミュニケーション能力もそんなにいらないだろう。ゾンビが何か強いメッセージ性のある言葉を発しているのは見たことがないし、饒舌かつ快活なゾンビも私は知らない。

今まで観たどんな作品でも、基本的にゾンビは徘徊を繰り返している。ゾンビであれば決まったルーティンをこなすこともきっと苦ではないんだろう。

さらに、ゾンビであれば学業や仕事でなにか成果を上げる必要もない。外見やにおいを気にする必要もない。なぜなら、「ゾンビとはそういうもの」という共通認識がある程度は広まっているから。ゾンビは存在するだけでゾンビ足り得るのだ。

ある意味「ゾンビであること」は最高の免罪符である。

 

潜在的ゾンビ希望者

実は現代社会には「潜在的ゾンビ希望者」が結構いるのでは、と私は思っている。

高いコミュニケーション能力を求められ、学業も仕事も成果を求められ、家庭や友人関係でもうまく立ち回ることを求められ。

「求められる」ばかりで、素の自分を見失う。そして、疲弊し、飲み会などで特に意味のない会話を垂れ流し、学業・仕事は決まりきったルーティンと化す。

もう疲れた。

これじゃゾンビと一緒じゃないか。

もう、ゾンビになりたい。

ウォーム・ボディーズ』では、そういった人々へのあたたかな目配りも忘れない。

「人生の疲れや痛みは、生きているからこそ、そして他人や自分を大切にしているからこそ感じられるものだよ」

と、前向きなメッセージを私たちに投げかけてくれる。

 

「ゾンビであること」の功罪

先ほど「ゾンビであることは最高の免罪符だ」と書いたが、『ウォーム・ボディーズ』ではこれがよくない作用を起こしていることも注意したい。

「R」は言葉数が少なく、どこか汚らしい見た目をしている(だがイケメン)。これはどうしてか?

「ゾンビだから」

だ。

これがちょっと小汚い人間だったらどうだろう。そして、見た目も林遣都じゃなかったら。

結構悲惨なストーリーが浮かぶ。

また、「ゾンビはいるだけでゾンビ足り得る」ことは多くのひとの共通認識であり、つまりあまり知能が高くなく、人を襲い、食って、ちょっと徘徊してみたりするだけで「ゾンビ」は完成する。ゾンビには「人を食べたいな」という気持ち以外、なんの野心も欲望もないように思える。

こういったゾンビに対する共通認識によって、「R」は批判的な言葉を言わず、純粋で、見返りなんて求めず、でも守ってくれて、下心とかはない、というとんでもなく都合のよいキャラクターであることが暗黙の了解となる。

加えて、本来他人を分析したり、あるいは映画などで誰かを描写したりするときには、その性質を表すいくつかのエピソードが必要であるが、「R」の場合、「ゾンビだから」の一言で済んでしまう。いわばキャラクター描写の放棄である。

あんまり話せないし、ちょっと小汚いけど、「ゾンビだから」しょうがないよね。

「ゾンビだから」欲、いわゆる下心とかないし、純粋な愛なんだろう。純粋だからこそ、身体を張って守ってくれるんだ。

人間だったらスタイルがよくないと、とか家柄重視、とか学歴が大事、とか言うけど、「R」は「ゾンビだから」、そんなこと考えないよね。

また、「R」を含め、作中のゾンビは、口から臓物を垂れ流したり、あるいは急に下半身を丸出しにしたりしない。これも大きなポイントである。ゾンビ的存在でありながらも、人間サイドの最低限のルールのようなものを踏まえている。上品なゾンビだな。

これらは、おそらく今作のテーマの1つである「異質なものとの共存」と大きく矛盾する。

異質だけど、純粋で、無欲で、言わずとも共通のルールは知っている。そういった、あくまで自分の許容範囲での「異質」しか認めない。そういった主張を感じる。

異質なものに開かれているようでいて、その実とても差別的な世界。それも無意識であるところがタチが悪い。しかしそれは、現実世界でもいっしょだ。

例えば新宿駅で、目の前で急におじさんが鳩を捕まえ、羽根をむしりだしたらどうだろう。「日本ではあんまり鳩を捕まえたりはしないかな。あと羽根をむしるのも見たことないかも」と説明するだろうか。私に関して言えば、答えはノーだ。とりあえず、見なかったことにして、できるだけ距離を取るだろう。

 

作中でゾンビは愛や優しさといった感情で人間らしさを取り戻し、人間の世界へと溶け込んでいく。しかし、少なくとも私には、それは異文化が混ざりあった新しい世界であるようには到底見えない。人間になる、ということは、ゾンビ的存在、つまり異質であることの脱却だ。実際、「M」はゾンビ体質が抜けず、指が曲がらないことに関して人間に「ゾンビ病」と説明している。別に指が曲がろうが曲がらなかろうがゾンビであろうがなかろうが「M」は「M」なのに。かつてのアイデンティティはいまや「病気」となってしまった。私は悲しくなった。

 

では、真に異質なものを受け入れるにはどうしたらよいのか。『ウォーム・ボディーズ』の世界で考えてみる。

週に1度は人間も人肉をちょっと食べみればよいのか。

あるいは、町内会などで「ゾンビウォーク大会」なるものを企画すればよいのか。

新宿駅で右往左往してなんとかおじさんから逃れようとする私には、その方法がいまだにわかっていない。

 

これからは「ゾンビ女子・男子がモテる」!! 

「見返りを求めない」「余計なことをしゃべらず寄り添ってくれる」「ただただ優しい」「守ってくれる」……。

これらが「R」の特徴だが、自分の彼氏や彼女、あるいは配偶者として理想的な存在について検討し、本当の、本当の、本当の本音を自分に問いただしたとき、心のどこかでこういった要素を求めるひとは少なくないのではないだろうか。

疲れて帰って来たとき、ただ優しく迎えてくれる。

特に見返りも求めず、微笑んでくれる。

浪費して帰ってきても、文句ひとつ言わない。

自分という人格にとって、あるいは道理的に人間関係を振り返ったとき、この関係性が正しいかどうかについては疑問を抱くところである。

だが。

その存在の、なんと癒されることか。

そこで私は提唱したい。

モテたいなら、ゾンビ女子・ゾンビ男子を目指せ、と。

ただ、コミュニティにおいてのルールはきっちり把握することはもちろんのこと、可能であれば「R」のようにイカした外見であることが望ましい。さらに、ちょっといい家に住んでいることも大切だ。「R」はほかのゾンビが徘徊している中、1人飛行機の中にプライベート空間を持っていた。そういった他と差をつけるプライオリティを確保することも重要だろう。

そのうえで、「自分はゾンビなんだ」という自覚を持つ。

「モテ」だけではない。個体差もあるが、ゾンビになればルーティンワークや、意味があるんだかないんだかわからない会話も気にならなくなる可能性もある。人間関係すら、「私・僕ゾンビだから必要ないかも」と割り切れるかもしれない。

ゾンビになれば、人生うまくいくのだ。

ゾンビ、万歳。

 

ただ、彼女・彼氏・あるいは配偶者の元カノや元カレの脳は食べない方がいいだろう、とだけ忠告したい。

いくらゾンビとは言え元カレや元カノの記憶を体感するのはわりとメンタルにくると思うし、脳を食らう姿は周りをドン引きさせてしまう可能性が高いからだ。