死にたいから映画観よう

映画の感想を書きます。低所得です。ネタバレ注意

【『愛がなんだ』鑑賞】私はパンツまで畳む。

 

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『愛がなんだ』(2019年)

監督:今泉 力哉

 

猫背でひょろひょろのマモちゃんに出会い、恋に落ちた。その時から、テルコの世界はマモちゃん一色に染まり始める。会社の電話はとらないのに、マモちゃんからの着信には秒速で対応、呼び出されると残業もせずにさっさと退社。友達の助言も聞き流し、どこにいようと電話一本で駆け付け(あくまでさりげなく)、平日デートに誘われれば余裕で会社をぶっちぎり、クビ寸前。大好きだし、超幸せ。マモちゃん優しいし。だけど。マモちゃんは、テルコのことが好きじゃない・・・。

(画像、あらすじともに公式サイトhttp://aigananda.com/より引用)

 

こわくてこわくて観られなかった作品

今泉監督の作品との出合いは『パンとバスと2度目のハツコイ』(2017年)、通称『パンバス』。

「まいまい」こと深川麻衣ちゃんの大ファンで、元まいみん(まいまいオタクの総称)・生涯深川麻衣推しである私は、舞台挨拶つきのチケットを購入し、映画館で鑑賞した。

「まいまいかわいいな」

「まいまいの隣の部屋で暮らしたいな」

そして

「生活のにおいのする映画を撮る監督なんだな」

というのが、そのときの感想だ。

 

私の中には、「生活のにおい系映画」というジャンルが確立されている。

特にきれいでもない街並み。

使い古された家具。

超オシャレではない登場人物たち。

セレブリティでもインスタグラマーでもない私にとって、それらはまさしく身近な存在。こういったものが写されている、つまり、「自分の生活と地続きの世界」が描かれている映画から、私の嗅覚は生活のにおいをかぎ取ってしまう。

そんな映画を、「生活のにおい系映画」とカテゴライズしている。

 

『パンバス』を鑑賞したとき、私はこの生活のにおいを非常に心地よく感じていた。その辺の街にいるその辺の人たちが、あたたかい視線で、大切に写されていたからだ。

 

それから少しして、『愛がなんだ』が公開されるというニュースを聞く。

私の女神・深川麻衣ちゃんも出演している。

パンフレットには、「マモちゃん」こと成田凌さんと「テルコ」こと岸井ゆきのさんの笑顔、やや黄色がかった街並み。あたたかな生活のにおいがするね。

観るしかないじゃないか。

しかし、あらすじを読むや否や、私の心は叫んでいた。

「この映画、なんかよくない感じするんだけど」

実を言うと、私は恋愛映画が苦手だ。

さらに言うと、「うまくいっていない系」や「失恋系」の映画は最も苦手なジャンルだ。

なぜか。

つらいから。

 

綺麗事を言いたいわけではない。でも、普通に生きているひとは、普通に幸せになってほしい。それが私の信念だ。

それが意外になかなか叶わないのが現実世界で、そこで生きるだけですでにつらいのに、なぜ映画の中でもつらい思いをせねばならないのか。

修行なのか。

 

『愛がなんだ』のあらすじからは、「うまくいっていない系」恋愛の香りがプンプンしていた。生活のにおいの中で、誰かが不幸になっていくなんて。もはやそれは現実じゃないか。

ダメだ。

こわい。

私の中で最もこわい映画は誰がなんと言おうと『リング』なのだが(幼い頃トラウマになり、私はレンタルビデオ店へ行けなかった)、『愛がなんだ』はそれを凌ぐ恐怖ムービーと化したのだった。

そんな折、私は親友のZちゃんに、映画上映会兼お泊り会のお誘いを受けた。そこで

「めっちゃこわい映画があってさ」

という話をしたところ、じゃあそれ観ようよ、とZちゃん。

Zちゃんとその夫、私の3人。これだけ頭数があればいけるかもしれない。

私は承諾した。

私のただならぬ恐怖心を察してくれたのか、Zちゃん夫妻は出前でピザを取ってくれた。なんとかポップな、楽しげな空気を醸し出そうとしてくれたのだろう。

そして、『愛がなんだ』鑑賞会が始まった。

 

台詞なしで伝わる「恋愛パワーバランス」

嫌な予感は冒頭から大当たりした。

体調が悪い、とそれとなくテルコを呼び出すマモちゃん。その電話だけで、こらえきれない喜びがこみあげているテルコ。そしてテルコはそそくさとマモちゃん宅へ向かい、甲斐甲斐しく味噌煮込みうどんをこしらえ、掃除をおっぱじめる。そこで、急にマモちゃんからやっぱり帰って、などと言われ、テルコは半ば強引に家から追い出されてしまう。ひどい。そう、2人は恋人同士でもなんでもないのだ。

夜も遅く、帰宅手段を失ったテルコは、深川麻衣演じる友人の葉子にヘルプを出す。

葉子は葉子で、若葉竜也演じるナカハラと夜を共にしていた。「彼氏かな?」と思いきや、葉子はナカハラに帰宅を促す。そして、当然のように帰っていくナカハラ。ひどい。そう、葉子とナカハラもまた、恋人同士ではない。

テルコはマモちゃんに弱く、ナカハラも葉子に弱い。

「恋愛強者」と「恋愛弱者」の構図。さながら負け続けるじゃんけんのような関係だ。

そして、やはり冒頭から、そこにはむせかえるほどの「生活のにおい」が立ち込めていた。登場人物たちからは、生きている人間のにおいを嗅ぎ取ることができた。演技とは思えない。私は成田凌さんを嫌いになりかけていた。

この時点から、私はピザの味が一切わからなくなっていた。

 

私はテルコです

ところがどっこい、テルコとマモちゃんは何となくうまくいっている雰囲気を醸し出し始める。マモちゃんもテルコも、関係性を定義するような言葉はもちろん、「すき」と気持ちを伝えることすらしない。

でも、ひとつ屋根の下で暮らし、一緒にご飯を食べる。何ならご飯を作っているテルコにマモちゃんはちょっかいをかけに行く(この「追いケチャップ」シーンは、成田凌さんファン必見。凄まじい破壊力だ)。そして一緒に風呂に入り、かゆいところはありませんか~、などと頭を洗いっこする。

なんという多幸感なんだろう。

私は幸せに包まれた。この幸せが続けばいいのに。

テルコもきっと同じ気持ちだったと私は思う。

 

だが、そんな生活は突然終わりを告げる。いろいろなものの積み重ねだったり、もしくは圧倒的恋愛強者であるマモちゃんの、ただの心変わりだったりするのかもしれない。

作中ではトリガーのひとつとして、「靴下を畳む」というものがあった。

マモちゃんが仕事に出かけているあいだ、マモちゃんの家で過ごすテルコ。ぱっと目を向けると、引き出しからぐちゃぐちゃになった靴下がのぞいている。

ああ、きちんと靴下同士をペアにして収納していないんだな。「靴下あるある」だと私は勝手に認識している。

それを、テルコはきれいに収納する。

だが、それに気づいたマモちゃんは一瞬フリーズする。そして、テルコを追い出してしまう。それだけでなく、それ以降、マモちゃんからの連絡はぱたりと途絶えてしまうのである。

 

「ハア? ひどすぎない?」

私は憤慨し、Zちゃん夫婦の方を向いた。だが、Zちゃん夫婦のリアクションは、予想とは全く異なるものだった。

「いやー、わかるわ、マモちゃんの気持ち。だって付き合ってもいないのにプライバシー侵害してくるんでしょ」

私は絶句した。え、すきだからこその思いやりじゃん。私だったらこのままパンツまで畳むと思う。

こう告げると、今度はZちゃん夫婦が絶句した。

 

そこから先は、Zちゃん夫婦とのリアクションの違いに、私はまるで異国に迷い込んだかのようなカルチャーショックを受けることとなった。

テルコは、マモちゃんがすきすぎるあまり、仕事に手がつかなくなり、結局クビになってしまう。Zちゃん夫婦はあきれた顔をしつつも爆笑していた。

だが、私は思っていた。

「すきな人ができて、仕事が手につかなくなることの何が悪い。

 しょうがないじゃないか、そんなにすきなんだもん。素敵じゃん」

そして私は絶え間なくマモちゃんに対して怒り倒していた。マモちゃんは、シャンプーしあいっこしたり、動物園にゾウを観に行ったり、焼き芋を半分こして食べるような、そんな幸せな日常を、なんとも思っていない。そんな体験は彼にとってコンビニエントなものなのだ。

私には許せなかった。テルコの純粋な気持ちを踏みにじる彼が。

私は尋常なないほどに、テルコに感情移入していた。

そして気づいた。

「テルコって、私なんじゃないの」

 

名優・若葉竜也

もう十何年も親友をやっているにも関わらず、Zちゃん夫婦と私との間にはあまりにデカすぎるカルチャーギャップが存在することが判明したが、それでも唯一私たちの心を通じ合わせてくれる存在が、この映画にはあった。

それが、葉子の「都合のよい男」であるナカムラくんである。

恥ずかしながら、私は若葉竜也さんという俳優を知りませんでした。つまりナカムラくんとしての彼が「初対面」である。

ヒャダインさんと、伊藤健太郎さん、そしてスパイス程度に小栗旬さんを混ぜたような風貌に、結構すごい毛量のヘアスタイル。そのルックスに加えて、彼のややうつろな眼差しや自信なさげな物言いが、「ナカムラくん」という存在にとんでもない説得力を与えていた。

「つらいときに思い出す、そんな存在でいい」「自分自身が愛するひとを『ひどい人間』にしている原因なんじゃないか」切実に悩む彼の姿に、私はもちろん、Zちゃん夫婦も思わず涙目になってしまっていた。

個人的にも、オタクである私はナカムラくんの気持ちが痛いほどわかった。

深川麻衣ちゃん、かわいいし、魅力的だもん。

「こんなんじゃダメだ」と自分を律するナカムラくんの気持ちを完全に無視し、私は「葉子こと深川麻衣ちゃんの寂しさを埋めるために、私はナカムラくんとシフトを組みたい」と考えていた。ね、気持ち悪いね。

 

みんながみんな、一生イケてるわけじゃないんだ

その後は地獄のようなシーンの連続だった。葉子が出かけてしまったため、葉子の家で、葉子の母とナカムラくん、そしてテルコの3人で年を越す、という「年越しイベントをほぼ全員他人、というメンツで過ごす」という絶対に経験したくないシーンも印象的だったが、何よりつらかったのは江口のりこさん演じる「すみれさん」の登場だ。

すみれさんは社交的で、おしゃれで、たばこをスパスパ吸っている、大人でなんだか都会的な女性だ。コミュニケーション能力もずば抜けていて、すかれようとしなくても、なんだかみんながすみれさんのことをすきになってしまう、そんな存在。恋愛遍歴を語らずとも、恋愛強者感がプンプンに漂っている。テルコとは対照的な存在だ。

そんなすみれさんに、あろうことかマモちゃんは恋をしてしまう。テルコには向けなかったいじらしい眼差し、不器用な優しさ。それはテルコの心、そして私の心をずたずたにした。

しかし、同時にこうも思った。

「あれ、マモちゃんってちょっとダサいしキモイな」

と。

あれだけテルコを魅了したマモちゃんが、すみれさんには全くと言っていいほど相手にされていない。マモちゃんは常にすみれさんの顔色を伺い、馴染めもしないパーティーに積極的に参加し、見事に孤立したりする。

恋愛強者だったマモちゃんが、すみれさんとの関係性においては、見事に恋愛弱者に成り下がっている。

私は少し安心した。

というのも、人間関係、とりわけ恋愛において強者であるものは、どんな場面においても強者であるという認識があったからだ。恋愛強者はイケてる、そしてイケてる奴はどんな場面でもうまいことやって、私なんかの数倍人生を楽しんでいるのではないか、と。

でも、マモちゃんはそうじゃない。ということは、人間みんな、人生ずっとイケてるわけじゃないのかもしれない。人生イージーモードの奴なんて、実はそんなにいないんじゃないのか。

冷静に考えれば当たり前の話で、恋愛は人生の一部であり、人生のすべてではない。「恋愛強者=人生うまくいっているはず」なんて、恋愛が人生のすべてだと考える、恋愛至上主義者の考え方だ。だが、テルコに感情移入し、「恋愛のためだったら仕事辞めたっていいじゃん」なんて思ってしまう私は、自覚がなかったけれど確実に恋愛至上主義者であり、この方程式を至ってナチュラルに用いていた。そんな私にとって、「恋愛強者はどんな場面でもイケているわけではない」というメッセージは、救いであるように感じられたのだ。

 

中学時代は主にまっちゃんとして過ごしてきました

物語の終盤、曖昧な関係を清算しようとしたマモちゃんに対し、テルコは自分の気持ちすら偽り、マモちゃんの恋を応援する、という名目でそれでも近くにいようとする。

 

Zちゃん夫婦は、テルコの言動に怯えていた。すきな人の「すき」を応援する。それはとてつもなく痛みを伴う行為だ。そんな痛みに耐えながら、それでもマモちゃんの側にいることを選んだテルコ。愛だとか恋だとか、もうわからない。テルコのアツい想いは執着へと姿を変えつつあった。そんな姿は、確かに恐ろしいものだった。正気の沙汰とは思えない。

私はと言えば、まあ私はテルコなので、「確かにこわいね」「悲しいね」と思いつつ、テルコにどこか幸せそうな雰囲気を感じていた。

 

テルコは作中ですきな人自身になってしまいたい、と語っていた。すきですきで仕方ないから、マモちゃんになりたい、と。

私もその気持ちはよくわかる。

実は、私は中学生の頃、ダウンタウン松本人志さんに恋をしたことがあった。あのまっちゃんだ。その頃すでにまっちゃんは大スターというかもはや大御所で、さらに私とは親子ほど歳が離れている。

追っかけや壁にポスターを貼るなどはしなかったものの、出演する番組はすべてチェックしていた。大変ライトなファンではあるが、あれは確実に恋であった。

まっちゃんに恋い焦がれる日々が続いていく中で、いつの間にか私はまっちゃんのしゃべり方、笑い方、仕草を完コピするようになってしまったのである。

今思えば最高にイタイやつだったと思う。夜中に悶絶するレベルである。

あのときの私は、意図せずとも間違いなくまっちゃん自身になろうとしていたのだと思う。

すきだから。あこがれだから。

そして、絶対に手が届かない存在だから。

だったら、まっちゃんになっちゃえばいいじゃん。

テルコにとってのマモちゃんは、もはや私にとってのまっちゃんになってしまっていたのだ。大御所でも親子ほど歳も離れていないマモちゃんが。

とんでもなく悲しい事実である。だって、テルコ自身が、心のどこかでは「マモちゃんには手が届かない」とずっと認識していたのだから。

その後、私はまっちゃんへの恋心から卒業した。失恋である。私が仮にまっちゃんになれたとしても、まっちゃんの恋人になることはない。その事実が悲しすぎた。

耐えられない。

でも、テルコのように、少しでもまっちゃんの側にいられるんだったら、どうだろうか。それはそれで、結構幸せなんじゃないか、なんて私は思ってしまうのだ。

 

 「純粋で正しい愛は報われてほしい」という願いの暴力性

この映画を観始めるにあたり、私はどこかで、「みんな誰かの大切な娘・息子なんだから、いい感じの恋愛をしましょうね」という結論に帰結するんだろうな、と思っていた。

だって、マモちゃんはさておき、テルコもナカムラくんも、まあちょっとアレなところはあるけれど、その想いは、純粋なものであるはずだ。社会的道理から逸脱もしていないし、誰にも迷惑かけていない。ナカムラくんに至っては、相手を愛しすぎるあまり、自ら身を引く、という決断をしたのだ。

これが純粋で正しい愛でなくてなんなのか。

だがそんな予想、というかもはや希望は叶うことがなかった。誰かの大切なひとであっても、その想いがどんなに正しく純粋でも、幸せな結末が約束されているわけではない、という残酷な現実があることを、この映画は示していた。

また、この映画が「生活のにおい系映画」であることもタチが悪い。

私が暮らす生活の、その地続きのどこかで、こんなに残酷な出来事が当たり前のように起きているのかもしれない、という恐怖を肌で感じることになるからだ。

 

だが、ここで私は疑問を抱いた。テルコやナカムラくんの想いは、本当に「正しく純粋」なんだろうか、と。

思えば、テルコもナカムラくんも、そしてマモちゃんも、すきな相手に対して、相手の気持ちを聞くことも、そして自分の気持ちを伝えることもしていない。私もZちゃん夫婦も、それについて何か疑問を抱くことがなかった。

ある一定の年齢から告白なんてしなくなる。「大人の恋愛ってそんなものなんじゃないか」という共通認識が何となくあるからだ。

そうなると、テルコとナカムラくんの愛、そこには相手が一切介在していない。

「こうしたらいいんじゃないかな」

「こうしたほうが相手は幸せだ」

それは一見思いやりに溢れているようでいて、その実相手のことなんて一切考えていないのだ。靴下がよい例で、マモちゃんは靴下を畳んでほしい、なんて思っちゃいない。でも、テルコは「よかれと思って」靴下を畳む。無償の愛だ、私もテルコもそう思うだろう。

マモちゃんからしてみれば、靴下がぐしゃぐしゃな方が探しやすいのかもしれないし、あるいは「しまっていた引き出しを開けて畳む」という行為は、プライベートな空間を侵害されたように感じられ、ひどく不快に思う可能性だってある。

 

だが、私はそれでも純粋な愛だ、と信じていたかった。

なぜならば、私はテルコだからだ。

「それでも相手の幸せを願っていることには違いないじゃないか」「尽くしたいと思える相手に尽くすことの何が悪いんだ」「相手の気持ちをいちいち察して、時には尽くす気持ちすら出し惜しみをする、それが大人の恋愛なんだったら、私は大人になんてなりたくない」

私はそう思っていた。

「純粋で正しい想いは報われてほしい」

「普通に生きているひとは、普通に幸せになってほしい」

これはテルコやナカムラくんに対しての願いに擬態した、私の欲望であった。

相手の気持ちが一切介在しない愛、それは一見美しいようでいて、その実欺瞞でしかない。そして、それが報われるべきだ、と考えることの、なんと暴力的なことか。

『愛がなんだ』は、気づきたくなかった、自分自身の愛の押し売り、そしてその暴力性を露呈させた。

 

それでも、優しく写される世界

こうして、『愛がなんだ』はまあたぶんハッピーエンドではない形で終わりを告げる。あとに残ったのは、どうしようもないひと、完全ではないひと、歪な恋愛感情をもつひと、傲慢なひと、そんなろくでなしばかりだ。私も含めて。

でも、それでも、そういった人々を、今泉監督は優しく映し出す。繰り広げられたのは残酷なストーリーだが、そこに向けられた眼差しは『パンバス』と変わらない、愛に満ちたものであった。

「ろくでもない生活してるけど、それも結構いいんじゃない」

「ハッピーエンドじゃないかもしれないけど、自分がハッピーならそれでもいいんじゃない」

今泉監督の映し出す映像から、私はこう語りかけてもらえている気がした。

 

『愛がなんだ』について、私は「恐怖ムービーである」という認識を改めるつもりはない。自らの歪さまで認識させられる、とんでもないホラー体験をしたからだ。

だが、鑑賞が終わったあと、元気が沸き上がるという不思議な感覚に満ちていた。

「私はろくでもない人間だけど、でもそんな自分を愛してみちゃおうかな」

なんて考えていた。