【『ミッドサマー』鑑賞】ホルガ村から出られない。
『ミッドサマー』(2019年、原題:Midsommer)
監督・脚本:アリ・アスター
家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。
(画像、あらすじともに公式サイトhttps://www.phantom-film.com/midsommar/より引用)
- 読んでくださる方へのお願い、そしてこの作品がだいすきな方への謝罪
- ウッキウキで観に行きました
- ストレス耐性テストなのかな?
- 共同生活がだるい
- なんか、そんなに美しくなくない?
- 村民がうざい
- こんな村民は嫌だ! ①「文化の押し売り」
- こんな村民は嫌だ! ②「ナチュラルな人種差別」
- こんな村民は嫌だ! ③「安易に『わかる―』という」
- 「大多数と違う」こと
- 「嫌だなぁ、怖いなぁ」は続く
読んでくださる方へのお願い、そしてこの作品がだいすきな方への謝罪
先に謝罪させてください。確かにこの作品は完成度が高いものであるのは確かなのですが、私はこの作品を手放しに絶賛することができません。
ですので、この記事は「今作の大ファンです」という方の気分を害される可能性があることだけ、先にご了承頂けますと幸いです。
また、この映画については、いろいろな方の意見を伺いたいと思っています。もしよろしければ、ぜひコメントやTwitterなどで率直な感想をお聞かせ頂けますと泣いて喜びます、私が。
ウッキウキで観に行きました
アリ・アスター監督については前々から気になっていた。なぜなら前作『へレディタリ―/継承』(2018年)への絶賛が凄まじく、「ホラー映画の歴史を塗り替えた」とまで言われていたからだ。
私はホラーがだいすきながら凄まじいビビりなので、『へレディタリー/継承』をなかなか鑑賞できないでいた。そんな中、アメリカで今作が公開されたことを知る。
「花々が咲き乱れる白夜の祭典で起きる惨劇」
概要を知った私はテンションがブチ上がった。
お花だいすき。
自然だいすき。
お祭りだいすき。
北欧もすき。
何だか自然を愛する心根は優しい悲しきモンスターみたいだな、とも思える私の性癖を著しくくすぐってきたのだ。「これだったら観られるんじゃないかな」と安易に期待を持った。
こうして私は、日本公開をまだかまだかと待ち続けていた。
そして、ついにそのときは来た。
ちょうど春めいた気候の日であった。花々が咲き乱れる春。私は春が一番すきな季節である。
私は浮足立って出かけた。
プロフィールにある通り、私は低所得なのでスターバックスコーヒーなんてお誕生日くらいにしか買えない。だが、今日は「祝祭」だ。どうせなら華やかなものを、と期間限定の「さくらラテ」を購入し、嬉しくて叫び出したい気持ちを押し殺しながら、映画館で着席した。
ストレス耐性テストなのかな?
私は楽しみを我慢できないタイプだ。
友人にサプライズプレゼントを購入しても、本人に渡すまでの期間が長いと我慢しきれず、「実はサプライズプレゼントがあるんだよね」とにやにやしながら言ってしまい、台無しにするタイプだ。
そのため、今作も実は、鑑賞した方々のレビュー(もちろんネタバレはなしのもの)を事前に拝読していた。
そのどれもが絶賛ばかりであった。
「奥が深い」「映像が美しい」といったレビューにも小躍りしたが、それ以上に私の関心を引いたのは
「癒される」
「女性が解放される映画」
というレビューの多さだ。
私の知識不足も多分にあるとは思うが、ホラー作品のレビューにおいてはなかなか見ることのないセンテンスが並んでいた。
私は今日、祝祭によって癒されるんだ。
そんな浅はかな期待は、大きく裏切られた。
すごい。
何って、ストレスがすごい。
冒頭から主人公・ダニーの家族は死ぬし(その写し方のまた嫌なこと)、ダニーと彼氏、そしてその友人たちとの関係もギクシャクしている。ダニーはほとんど顔を歪め泣き叫び続けるか、不安定な表情をしている。
そして、民族音楽らしく何を言っているかわからない歌唱と、聞えているんだかいないんだか、ひょっとしたら耳鳴りなのかもしれないようなBGM。
例え画面越しのフィクションであったとしても、この状況を目の当たりにしてニヤニヤできるひとがいるとしたら、私はそのひととはちょっと距離を置くと思う。
とにかく、観客の不安感・不快感をこれでもかと煽ってくるのである。
「嫌だなぁ、怖いなぁ」私の中の稲川淳二がにわかに騒ぎ出す。
そこから、畳みかけるように「アッテストゥパン」なる儀式でぐしゃぐしゃになった老人がクローズアップされ映し出されるし、友人は皮を剥がれて死に、食事にすら勝手に「嫌な手間」が加えられる。しかも、村人は常にドラッグを勧めてくる。登場人物は大体いつもキマっているのである。
不安感・不快感はマックスのままである。耐え難いストレスにさらされ、私は謎のからだの痒みを発症していた。ウキウキで買ったスタバの、そのカップの中身さえもう信用できなくなり、すっかり冷めきってしまっていた。
そして、物語は終盤へ。
私はもはや笑っていた。
「メイクイーン」を決めるためのダンスバトル。村の老女総出での性行為。犠牲者を決めるためのガラポン。クライマックスに近づくにつれどんどん華美になり、しまいには身動きが取れなくなってしまうフローレンス・ピューの装飾。そして「クマちゃん」の着ぐるみ。
「不謹慎ギャグ」の大喜利大会じゃないか。
私はドン引きしながらも、もはや笑うしかない展開に困惑していた。
こうして、私がウキウキで向かった映画鑑賞は、不安感・不快感と半笑いによって幕を下ろした。
企業に勤めていると、往々にしてストレスチェックテストなるものを受験することがある。「たぶんこう答えたら鬱病って診断されるんだろうな」と薄々勘付いてしまうような設問より、この作品を上映し、そもそも上映時間の間ずっと耐えられるのか、そしてこの映画について社員がなんと感想を述べるかをチェックしたほうがよっぽど有意義なのではないか、と真剣に考えている。
「最悪だった」
そんな感想が出てきた。怖かったのではない。「最悪だった」のだ。
では、何が「最悪だった」のか。私はそれを言語化することを試みる。
共同生活がだるい
「最悪」ポイントの1つ。それは「共同生活が無理」という私のしょうもない我儘にある。
私は昔から他人と一つ屋根の下で暮らすのが苦手だった。家族は百歩譲るが、一番許せないのが就学旅行や林間学校、合宿であった。
みんな一律に時間を守り、寝起きし、食事をする。
会話は筒抜けで、プライベートな時間や空間もない。
なぜみんな平気なのか。
むしろ「楽しい」とのたまうひとたちまでいる。
ホルガ村でも、どんなに赤子が泣き叫ぼうと一つ屋根の下で寝泊まりさせられる。食事もみんなで一緒。徹底的に「個」の時間・空間を排除した生活を余儀なくされる。
十分な睡眠もとれず、1人で我に返る時間も与えない。村民たちは、「個」の判断を奪い、共同体の構築するのに有力な手段であると理解しているのだ。
過激な意見ではあるが、ホルガ村まではいかないにしろ、先に述べた修学旅行や林間学校、合宿なども同じ側面を持っていると私は思っている。強制的に共同体を構築するのに、共同生活はぴったりなのだ。
正常な判断なしに、そして強制的に構築させられたコミュニティ。それは本当に結束力があり、あたたかく誰かを迎え入れてくれるものなのだろうか。
私は疑問を呈したい。
なんか、そんなに美しくなくない?
これも完全に私の主観に過ぎないのだが、「思っていたほど美しくなかった」のも「最悪」だった理由の1つだ。
私は今作に、至高の美を求めていた。というのも、しばしばホラー映画には「美」が用いられる。個人的には、グロテスクな描写と対比させ、より恐怖感を高めるためだと考えている。
もともとアリ・アスター監督の作品は、美術のセンスがとても高い。『Munchausen』というショートムービーでもその片鱗は伺えるし、『へレディタリー/継承』ではその美意識が爆発しすぎていて、むしろ心配になるくらいのものであった。
では、『ミッドサマー』はどうか。
確かに自然は豊かで、事前の情報通り、花も咲き乱れている。
だが、思っていたほどではない。「それなりに美しいな」、そこに着地してしまった。期待しすぎちゃったのかもしれない。
少なくとも、今作のグロテスクさに双肩できるほどの「美」を、私見出すことができなかった。
また、私は映画で美しく描かれる女性が大好物なので、それも期待していたのだが、そこも肩透かしを食らった。
まず、村民にあまり美女がいない。リアル感があると言えばそうなのだろう。
「どの口が言っているんだ」と思わないでほしい。だが、「映像美」を謳うからには、村にはモデル級の美女が揃っていてほしかった。
そして、なんか、フローレンス・ピューのガタイがよい。フローレンス・ピューは確かに美しい。だが、なんかガタイがよい。
めっちゃ強そう。
そこが、今回の映画のテーマとは合わないのでは、とすら感じてしまった。これが細身の女性であれば、より儚さを演出できたのでは、と。
フローレンス・ピューだったら、村民と素手でやりあえるような気さえする。
ここで、私は私自身の傲慢さに気づく。
ガタイがよければ強いのか。
反対に、細身であれば弱く、美しく、儚いのか。
自分の中に、無意識に「美」の固定観念が根付いていたことに、私は戦慄した。
これが、1つのホラー体験である。
村民がうざい
色々と述べてきたが、それを押しのけて「最悪」だったのは、村民たちだ。私は鑑賞中「不快感」を感じていた。その正体は、村民たちへの「怒り」であった。
ここでは、村民への怒りを爆発させていきたい。
こんな村民は嫌だ! ①「文化の押し売り」
現実でもフィクションでも、それぞれのコミュニティには伝統的な暮らしがあり、そこに根差した文化がある。それがどんなに残酷なものであっても、私はそれを尊重すべきだと思っている。それを「間違っている」と言えるほど、私は私自身を大した人間とも正しい人間だとも思えないからだ。文化を変える、その大いなる責任も負いたくない。
ただ、それを異なるコミュニティに属するひとに押し付けるのは、違う。ホルガ村では、その文化を押し付け、そこから少しでも逸脱するようなことをすれば、コミュニティから疎外され、しまいには命を奪われてしまう。仲間だと迎え入れられるのは、ダニーのように心が弱り切ってしまっていて、その文化に疑問を持つ気力すらない、いわば「征服」できるような人間だけなのである。
「文化の違いだからさ、しょうがないじゃん」と他のコミュニティのひとの心や自尊心、ましてや命までもを犠牲にするのは、傲慢以外の何者でもないと私は思う。
こんな村民は嫌だ! ②「ナチュラルな人種差別」
「村民には有色人種がいない」。鑑賞後に拝読し、「確かに!」と吃驚したレビューだ。
ホルガ村はその規模の割に、結構な人口がいる。おそらくダニーたちのように外から連れてこられたり、或いはクリスチャンのように子孫繁栄のためだけに連れてこられたりしたひとが少なからずいることが推測される。なのに、構成員はすべて白人である。
反対に、今回の祭典で犠牲になった人間たちの多くは、有色人種であった。
「自分と違うものは排除したい」
異文化のみならず、肌の色ですら、村民は容赦しない。
より強固な共同体にするには、スケープゴートをつくるのが有効だ。そういった意味で、「肌の色が違う」というのは非常にターゲットにしやすい。
「私がホルガ村に呼ばれちゃったらどうしよう」と鑑賞中考えたこともあった。だが、考えるまでもない。私は黄色人種。ただ殺されるのを待つだけである。
文化と同じく、人種に対してもホルガ村は傲慢であった。
こんな村民は嫌だ! ③「安易に『わかる―』という」
さらに私を苛立たせたのは、「わかっているよ」という、村民の態度だ。
今作の終盤、クリスチャンの「裏切り」を知ったダニーは泣き叫ぶ。それを観た村の女性たちは、ダニーを囲み、同じように泣き叫びだす。
家族を失い、最後のよりどころであった彼氏にまで裏切られたダニーは、初めてここで他人と悲しみの共有ができたのだろう。
だが、私は強烈な怒りを覚えた。
村民よ、お前に何がわかるのか、と。
個人的な話になるが、私は安易な共感が大嫌いだ。
だから、なるべく他人にも「その気持ち、わかるよ」などとは抜かさないように気を付けているつもりだ。
ひとには様々なバックグラウンドがある。
例えば、ものすごく極端な話をするが、多くのひとは自転車のサドルが盗まれても、ムカつきはするし、警察にもおそらく届けるけれども、そこまで悲しみを抱くことはないだろう。
だが、そのサドル窃盗事件で咽び泣くひとがいたらどうだろう。例えば、それが亡くなった祖母の形見であったら。
「たかがサドルじゃん」と笑えるだろうか。
物事は、その表層がすべてではない。
感情も同じである。
他人の気持ちなんて、わかりっこない。
「悲しい」という1つの感情だって、ひとそれぞれ細かな糸が繊細に絡み合ってそれを構成している。1つだって全く同じ感情なんてないのだ。
であれば、その気持ちにそっと寄り添うことしか私たちにはできないのではないか。
悲しいし冷たいようだけれども、それが相手の感情を最大限に尊重する姿なのではないか、と私は信じている。
だからこそ、安易に悲しみを理解し、共有した(かのように見せかけた)村民に、私は拒絶反応を抱いた。安易な共感。それは相手の感情、そしてバックグラウンドに対する侮辱である。私には、ただ力なく側にいただけだったクリスチャンの方が、まだ誠実な人間に感じられたくらいだ。
一方で、「わかるー」で構成された会話を好むひとたちがいることも忘れてはならない。批判したいのではない。私も共感を必要とするときが大いにある。
それは、自分が悲しみに包まれているときや、マイノリティに属しているときだ。
そのときの「わかるー」という共感の、何と救われることか。自分の弱さ、或いはマイノリティに属するアイデンティティを受け入れてくれる場所がある、という安心感。
今作を「癒し」「女性の解放」と感じるポイントはそこにあると私は思っている。
安易でもいい。「本当にわかっているか」なんてどうでもいい。
ただ、「わかるー」と言ってほしい。
自分という「個」を滅してでも、どこかに帰属したい。
そんなひとたちが、少なからずいるということだ。
そんな社会が形成されていること自体が、相当なホラーだと私は感じる。
「大多数と違う」こと
私は自分が特別な感性を持っているとは思っていない。絶賛されている映画は大体楽しめるし、涙もする。
そんな私が、今作について世間で溢れていた「癒し」「女性の解放」を全く感じることができなかった。
世間とあまりにも異なる感想を抱いてしまった。これは人生で初めての体験であった。
私はどこかずれてしまったのだろうか。
社会という共同体から浮いているのではないか。
それは大きな不安につながった。
そんな不安も、「最悪だ」と感じた要因の1つである。
ダニーたちがホルガ村で味わった、「共同体に馴染めていない」という不安。それを、私はこの映画の鑑賞によって追体験した結果となったのだ。
「嫌だなぁ、怖いなぁ」は続く
こうして散々な目に合った『ミッドサマー』だったが、この作品は想定外の部分にも影を落としている。
私は自然や花々がだいすきだ。植物園もよく行き、いずれは世界中の植物園を制覇したい、という野望まで抱いている。
だが、『ミッドサマー』以降、このだいすきな風景に、私は無意識に、鑑賞中に感じた不穏な空気や血生臭さを嗅ぎ取ってしまうようになった。
今まで癒しだった風景が、完全にトラウマにすり替わってしまったのである。
私は絶望した。
そして恐怖を抱いた。
たった1つの映画が、フィクションが、私の現実に深い爪痕を残してしまったのだ。
これをホラーと呼ばずして何というのか。
散々なことを書いてきたが、『ミッドサマー』は私の人生を変えた、いや、変えてしまった傑作だったのだ。
「嫌だなぁ、怖いなぁ」。
私の中の稲川淳二は、これからも当分消えてくれそうにない。