死にたいから映画観よう

映画の感想を書きます。低所得です。ネタバレ注意

【『翔んで埼玉』鑑賞】『レッツゴー ジャパン』を製作しませんか。

 

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東映ビデオ株式会社https://www.toei-video.co.jp/special/tondesaitama/より引用)

『翔んで埼玉』(2019年)

監督:武内 英樹

 

埼玉県の農道を、1台のワンボックスカーがある家族を乗せて、東京に向かって走っている。
カーラジオからは、さいたまんぞうの「なぜか埼玉」に続き、DJが語る埼玉にまつわる都市伝説が流れ始める――。

その昔、埼玉県民は東京都民からそれはそれはひどい迫害を受けていた。
通行手形がないと東京に出入りすらできず、手形を持っていない者は見つかると強制送還されるため、
埼玉県民は自分たちを解放してくれる救世主の出現を切に願っていた。

東京にある、超名門校・白鵬堂学院では、都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)が、埼玉県人を底辺とするヒエラルキーの頂点に、
生徒会長として君臨していた。
しかし、アメリカ帰りの転校生・麻実麗(GACKT)の出現により、百美の運命は大きく狂い始める。

麗は実は隠れ埼玉県人で、手形制度撤廃を目指して活動する埼玉解放戦線の主要メンバーだったのだ。
その正体がばれて追われる身となった麗に、百美は地位も未来も投げ捨ててついていく。

2人の逃避行に立ちはだかるのは、埼玉の永遠のライバル・千葉解放戦線の一員であり、壇ノ浦家に使える執事の阿久津翔(伊勢谷友介)だった。
東京を巡る埼玉vs千葉の大抗争が群馬や神奈川、栃木、茨城も巻き込んでいくなか、伝説の埼玉県人・埼玉デューク(京本政樹)に助けられながら、
百美と麗は東京に立ち向かう。果たして埼玉の、さらには関東の、いや日本の未来はどうなるのか――!?

(公式サイトhttp://www.tondesaitama.com/より引用)

 

「埼玉県民にはそこらへんの草でも食わせておけ!」

公開されるや否や超話題作となった『翔んで埼玉』。原作マンガも大人気で、かくいう私も「埼玉県民にはそこらへんの草でも食わせておけ!」という埼玉県民を差別=ディスりにディスった、「もしかしたら埼玉県民に親でも殺されたのかな」とも思わせる衝撃のフレーズが書かれた表紙に魅了された者の1人だ。

そんな今作がAmazon Primeで公開されていることを知り、早速鑑賞してみた。

 

埼玉のこと、あんまりよく知りません

 

私は生まれも育ちも神奈川県の横浜市。都内にある大学に進学するまでは神奈川県からほとんど出たことがなかったように思う。

だって、買い物や娯楽、観光に至るまで、だいたいのものは神奈川県内で済んじゃうんだもん。

そんな経緯もあり、また恥ずかしながら地理に疎いことも相まって、私は神奈川県以外の都道府県のことをあまり知らない。もっと言えば、興味もない。

知識もなく、興味もなければ、そこにはなんの感情も生まれない。

憧れも、ディスる気持ちも。

というわけで、私は埼玉県に対しても、同様のスタンスであった。

大学に入学するまでは。

 

埼玉県民のプライドの話

私は池袋にある大学へ進学した。

初年度のオリエンテーションや授業などで、大学には中学校、高校と異なり、様々な出身地のひとがいることに軽くカルチャーショックを受けた。

「新潟」「静岡」「四国」あるいは海外出身のひとも多くいた。

それでもなぜか最も多かったのは、「埼玉県出身・在住者」であった。

当時の私は不思議に思い、あるとき埼玉県在住の友人に訪ねた。

「うちの大学って埼玉県の子多いよね」

すると友人は複雑な笑みを浮かべ、こう答えた。

「池袋は埼玉の領土だから」

 

大学での4年間は、神奈川でセルフ鎖国生活を送っていた私にとってある意味で留学生活ようなものであった。そして薄々各都道府県や土地にはなんらかのヒエラルキーが存在することに気づき始める。だがそれは「差別」とか「仲間外れ」とか大それたものにつながるものではなく、ただ飲み会でいじられたり、話の最中に「○○県出身のひとってこうだよねー」と笑い話にされたりする、といういった類のものだと認識していた。この「土地ヒエラルキー」は交通の便がよい都会やおしゃれなひと、高所得なひとが集う街、あるいは街並みがきれいなところほど、高く設定されるようであった。

ちなみに、横浜市は「土地ヒエラルキー」上位のようで、

「おしゃれな街だよね」

「え! 今度案内してよ」

などはもちろんのこと、

「あー! だから都会的な顔立ちなんだね」

とまで言われたことがある。「国ならまだしも市町村で顔立ちが決まってたまるか」と思ったものの、そんなに悪い気はしなかった。

一方、埼玉はなぜかヒエラルキー下位付近に位置していた。なんで? 交通の便、結構よくない? 行ったことないけどさ。私はバカらしいな、と思っていた。

ある日、私はまた違う埼玉在住の男友達(今思えば本当に埼玉県民に囲まれた大学生活であった)に

「埼玉県って『ださいたま』とか言われてるの、ひどいよね」

と笑いかけた。

すると、みるみるうちに彼の目からは涙が溢れだした。

え。

まじで。

私は高校の合唱コンクール以来久しく男子の涙を見ていなかった。

私は焦った。

なんてことをしてしまったんだ。

謝罪する私の言葉を遮って、彼はよくそう言われること、そしてアルバイトや仕事を頑張って、いつか埼玉から絶対に脱出したいと考えている、と語ってくれた。

涙を湛えた、悲しみ微笑みを向けながら。

この一件は、今でも私の心に暗く影を落としている。

こういった大学生活を経て、私は埼玉のヒエラルキーの低さが割とメジャーなこと、そこから生まれるディスを埼玉県民は笑って受け流しているが、その実傷を抱えていることを認識した。私は横浜市民。『翔んで埼玉』でいえば「B~D組」の人間で、埼玉人こと「Z組」の気持ちなんて、私なんかにわかるはずがなかったのだ。

 

だが、「傷つく」ということは、「本当はそうではない」と思っているということの証左だと私は思う。つまり、埼玉県民は「埼玉って結構いいところなのに」という気持ちを、心のどこかに抱えているのではないだろうか。「いいところ」とまで思っていなくても、「そこまでディスられるいわれはない」くらいの気持ちはきっとある。

これこそが「郷土愛」であり、埼玉県民のプライドなのだ。

そして、今まで彼らがされてきたように、ディスで笑いを誘うスタイルをとりながら、高らかに埼玉県民のプライドを称えるのが、この『翔んで埼玉』という作品である。

 

 

キャスティング、美術が素敵すぎる

完全なる偏見だが、邦画を観るとき、「キャスティング」「美術」が私の中でネックになることがある。

「なんでこの人にしたんだろう」

「お金持ちの設定のはずなのに、なんか所帯じみているな」

ここが気になってしまうと、私は映画の世界に没入できなくなってしまう。

そういった点で、『翔んで埼玉』は素敵すぎる出来栄えだった。原作のもつ何やらファビュラスな雰囲気を見事に再現している。

二階堂ふみさん演じる壇ノ浦百美については、「美少年でもよかったんじゃないかな」と少し思ったが、全編通してみると、二階堂ふみさんの演技なしでは、この作品は成り立っていなかったと感じられる。

また、「ぱるる」こと島崎遥香ちゃんはかわいくてだいすきだし、麻生久美子さんも大ファンなので、個人的にも大満足のキャスティングだったと言いたい。

加えて、メインキャスト以外にも注目したい。超名門校・白鵬堂学院では、「なんか都会っぽい」という「都会指数」によってクラスが分けられている。言わば前述の「土地ヒエラルキー」に則っているといえる。都会指数の高いクラスほど、美形ぞろいであり、等身が高く、バラの香りがしそうなキャストのみで構成されている。

一方、都会指数が低くなるにつれ、顔はよく言えば質素、悪く言えば醜くなっていき、何等身だかよくわからないキャストばかりになっていく。この白鵬堂学院パートを除けばほとんどが都会指数マイナスくらいの埼玉や千葉、そして群馬が舞台なので、この所帯じみたキャストがスクリーンを埋め尽くすこととなる。

それだけに、Gackt様、そして二階堂ふみは光輝くのである。

このキャスティングは、実に的を射ている。というのも、前述したように「土地ヒエラルキー」上位には交通の便がよい都会やおしゃれなひとや高所得なひとが集う街、あるいは街並みがきれいな街が食い込んでくる。したがって、それなりに見た目をケアすることができる所得を持つひとや、ある程度結婚相手を品定めできるひとが「土地ヒエラルキー」上位に溢れることになる。逆説的に考えると、「なんとなくいい見た目」のひとが集えば、何となくそこは「土地ヒエラルキー高めの場所感」が演出できるのである。

作中で「都会指数が高い」として青山や港区などが挙げられるが、これらの地域は現実世界においても「土地ヒエラルキー」の高い地域である。ここらを歩いてみると、何となく美男美女が多かったり、そうでなくてもおしゃれに気を遣っているひとが多く歩いているように感じられないだろうか。その際、「あっさすが青山だな」などと「土地ヒエラルキー」を再認識するようなことはないだろうか。

このようにキャストのルックスを用い観客に無言で「土地ヒエラルキー」を認識させることで、白鵬堂学院のクラス分け、あるいは埼玉、千葉、群馬と言った土地の雰囲気に謎の説得感を生み出しているのである。

また、美術のつくりこみもすごい。白鵬堂学院のセットは言わずもがな、群馬の未開の地感や埼玉のうらぶれ具合は、なぜ各都道府県からお叱りがなかったのか疑問に思うレベルに達している。

ここで特筆したいのは、常磐線の描写だ。日暮里駅から千葉県や茨城県福島県宮城県までをつなぐあの常磐線。「なぜ、あの数分のために、ここまで常磐線をつくりこんだのか」と、私は製作陣を問いただしたい。

 

ギャグだとしてもアツくなる

こうしたキャスティングの妙、作り込まれた美術、そしてキャストたちの迫真の演技によって、物語終盤の「埼玉VS千葉」の戦は、「ギャグだ」と理解し、笑いながらもどこかアツくなってしまうのだ。

不器用な埼玉を応援したい。

でも、千葉は強すぎる。

チーバくんふなっしー。極めつけは市原悦子さん。

そして捕らえられた他県民は、容赦なく穴という穴にピーナッツを詰め込まれるという。

ダメだ。

勝てない。

例によって千葉に対してもなんの知識も思い入れもない私は、千葉のとんでもない戦闘力と凶暴性に震えた。

一方で、千葉が「海がある」と高々とのたまい、「荒波!」みたいな感じののぼりを掲げている点については、知識がないなりに考え、「千葉っていうてそこまで海のイメージはないんじゃないかな」と冷静な突込みを入れることができた。

 

この川を挟んだ戦でも十分な熱量を感じるのだが、ここから、埼玉と千葉がともに手を取り合い、「土地ヒエラルキー」最上位ともいえる東京に戦をしかけていく様はまさしく大迫力である。

 

鑑賞中はずっと笑っていられるが、これもすべて戦や街の様子、県民一人ひとりのキャスティングに至るまで、「ギャグだから」で手を抜くことをしなかった、作品、そしてそれを囲む人びとの情熱の賜物である。

 

 

「土地」を愛すること

作品を観終わって、「あー面白かったな」と大満足した私だったが、一方どこか寂しい気持ちを抱えていた。これは、百美が作中で「うらやましい」という台詞で代弁してくれた。

前述のとおり、私は埼玉県や千葉県に対し何の感情も知識も持ち合わせていない。

でも、実はこれは私の地元・神奈川県に対しても同じだ。横浜はよい街だとは思うし、すきではある。でも例えば、いま「バカながわ」とか言われても、私は終始曖昧な笑みを浮かべるだけである。

私は神奈川県、あるいは横浜市という土地に対して、強い愛着がないのだ。

これが世代間ギャップ的なものなのか、私固有のものなのかはわからない。個人差も大きいとは思う。もしくは、私は白鵬堂学院でいうところのB~D組にあたり、特にディスられることもなかったから、愛着がわかなかった可能性もある。

一方で、前述したように「ださいたま」で悲しい思いをさせてしまった彼のこともあるし、少し前ではあるが、ヒエラルキー上位の街に児童相談所を新設するかどうかで「この土地にはふさわしくない」といった反対意見を述べる住民がいて話題になっていた。これらは間違いなく土地に対する愛着によるものだと私は思う。

私は、このような愛着を少しうらやましく思う(児童相談所の件はまた別だが)。友人や同僚が遠く離れた故郷を自慢げに語るのをみるとき、心のどこかで「いいな」と思っていた。

そんな私でも、愛着のある「土地」は存在する。

それは、「日本」だ。

私は特別に愛国者というわけでもないし、「日本サイコー!」とも思わない。「いいところを挙げて」と言われても、ぱっと出てくるか不安はある。

それでも、日本人が「日本人だ」というだけで海外で何かひどい目に合ったり、事件の被害者になったりするのはとてもつらいし、悲しい。現在コロナウイルスが世界的に流行しているが、アジア人というだけで「コロナウイルス保菌者だ」と差別的扱いを受けたというニュースを目にした。これには日本人も該当している。

また、日本人自体が日本を否定、もっと言えばディスってしまう悲しい習性も大いにあると感じている。

私自身、日本家屋か西洋建築かだったら西洋建築が好きだし、結婚式では着物よりドレスを着たい。グローバルに活躍してみたい。碧眼へのあこがれもあるし、美の基準はほとんど欧米化しているのではないだろうか。むしろ、欧米的美へのコンプレックスにまで進化しているとも言える。

これは『翔んで埼玉』でも顕著に描かれている。白鵬堂学院は西洋的美で溢れかえっていて、麗も百美も西洋の王子のような出で立ちをしている。

反対に、埼玉県や千葉県を描くとき、そこには日本的な家屋や農民が存在していた。

白鵬堂学院はきれい。埼玉県や千葉県はなんかイケてない」

この描写を観て、私は素直にこういった感想を抱いた。私の中の、あるいは日本人の大半が潜在的に持つ欧米的美へのコンプレックスが作中では大いに活用されていた。

 

「日本人は差別される」

「日本人ってなんか美しくない」

「日本ってダサい」

こういった意識が少なからず根差してしまった昨今、世界に向けて、いや日本人に向けて、『翔んで埼玉』ならぬ、『レッツゴー ジャパン』が必要だと、私は提言したい。

他者、あるいは自らが自分に向ける悪意のある眼差しや偏見を、シニカルに、軽やかに返り討ちにする、そんな一本が。

 

 

最後に、数あるこの映画に関するレビューで私の心に突き刺さったものを紹介したい。

「この映画で一番ディスられているは栃木だ」

というものだ。

確かに。

確かに。

 

思い返すと、栃木の「と」の字が出たか出ていないか、そこすら定かではない。

差別や偏見、ディスられることはもちろん悲しい。

一方で、無関心も同じくらい悲しい。

私は私自身の、土地に対する「何の感情も知識も愛着もない」というスタンスを見直そう、と心に誓いました。